物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

SOGI

我が家では家族それぞれがマイペースで自分の活動を優先してしまうので、一緒に夕飯を食べることがほとんどありません。でも、今夜、久しぶりに遅い夕飯を食べながら、NHKラジオで「男と女を超えて~性の多様性を考える~」という番組のたぶん4回目の放送を聞きました。

夕食しながら聞く内容ではないかなと思ったのですが、予想外に家族みんな面白がってで聞き入ってしまいました。そうかぁ、やっぱり性についてというのは気になる問題だよね、とあらためて思いました。

私は自分自身についてはとことん考える質なので、性自任・性的指向について関心があるのですが、自分の性について真面目に考えると迷宮に入っていってしまいます。自分にとっては当たり前のごく健康的な感覚も、考え始めると普通ではないような気がしてきてきます。

一般的な男性性と女性性という分類に自分はそんなにばっちり一致していないような気がしますが、LGBTにも一致していません。そんなふうに割り切れないのですよね。

一般社会の性的マイノリティへの差別には自分のことのように傷つきますが、LGBTのかたと性について話すことも傷つけてしまいそうで難しいと感じてきました。

でも、ラジオによると、LGBTの代わりにSOGIという言葉が国連でも使われ始めているらしいのです。GIはジェンダーアイデンティティー(性自認)の略、SOはセクシュアルオリエンテーション性的指向)の略なのだそうです。へえ、そうなのね、それならわかるかも…と。

昨日、ピッピのメンバーで映画「リリーのすべて」の話でモヤモヤしていたことの正体がなんとなく少し見えてきました。たぶん、性自任・性的指向について、自分たちはマジョリティとして、マイノリティのリリーについて語ることに心苦しさを感じていたんです。

つまり、LGBTという概念を使うと、非LGBTの人たちが自分たちの外側の問題としてしか考えられなくなってしまうんですね。そういうふうには、考えたくないです。

男女平等

昨日は少し前に観てここにもとりあげた映画「リリーのすべて」について、メンバーで語り合いました。映画は、結婚6年目の仲睦まじいカップルであるまま、体は男性だけれども性的自任が女性だということに気づいていく夫と、それを助ける妻を描いた作品です。

自分の性自任や性指向が確立するのはだいぶ遅いことが多いですし、たぶん現代は性的成熟が遅そうなので、自覚は更に遅くなるのだろうなぁと想像します。大変だと思うけれど、周囲が心無い差別をしなければそれほど苦しむことはないと思います。問題は、周囲の無理解ですよね。

私たちのグループ「ピッピのくつした」は18年ほど前、もともと男女平等政策の役割も担って発足したためか、性的マイノリティの話題をとりあげることは多かったように思います。だから、知識として知っている方が多いのですが、今回、久しぶりに性的マイノリティの話をしてみて、私たちからあまりに遠く、つかみかねる話題なんだなぁと実感しました。

40代半ばから50代というと、これから性自任や性指向が変わることも考えにくいですしね。…性的にそろそろリタイヤする年齢ということもあるのかなぁ(涙。

私自身は、5年ほど前に小説を書き始めて、自分は小説を書く人のタイプの性自任・性指向なのだと気づきました。今まで微妙に普通とズレている、変に熱く、変にクール、だと思っていたのが、ただの憑依体質なのだと理解してすっきりしました。

一時期、男女平等が行き過ぎているというバッシングもありましたが…

(どっちも行き過ぎに問題があるように私は思います。その主張が相手への攻撃ではなく、よりよい未来を目指していることが大事なのではないかと思います。)

でも、時代は平等にしないと現実生活が成り立たなくなっていく気配ですね。年代による意識の差も大きいように思います。そういう意識の違いによるギャップを埋めるための男女平等政策が必要なのかなぁと思いました。

はっぴぃさん ロミオとジュリエット

今日の午前中の読書会は、絵本「はっぴぃさん」(荒井良二さく)についてみんなで語りました。何度かとりあげている本ですが、新年ということもあるのか、新たな気持ちでしみじみ味わうことができました。

はっぴぃさんというのは正体不明。カタツムリなのか、ウサギなのか、リスなのか、ハトなのか? まあ、そのどれてもないのでしょうね。山の上の大きな石の上にときどきあらわれて、なんでも願い事をかなえてくれるらしいのです。

絵本には二人の子どもが出てきます。のろのろの男の子は、のろのろじゃなくなるように、あわてんぼうの女の子は、あわてなくなるようにお願いしにはっぴいさんに会いに行くのです。

その、自分の良くないところを反省して変えようという気持ち、そういう気持ちにはなかなかなれない世の中で、その前向きな祈りをもって山に登っていく子どもたち。そして、自分とはまったく違う人と出会って、その相手を認めようとする姿勢にもグッときてしまいました。難しく高尚な祈りよりも、生を肯定する純粋な祈りのように思えまして…。

物語から離れて日本人的な祈りから、お米のこと、ラスコーの壁画についてなど、新年にふさわしい色々な話ができて良かったと思います。

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これ、先日行ったラスコー展で撮った写真ですけれど、ちょっと「はっぴぃさん」に通ずるところがあるような気がします。

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午後の読書会は「ロミオとジュリエット」でした。誰でも知っているセリフまである、超有名なシェークスピアの作品。

ここにもラスコーに通ずる生を肯定する祈りがあるような気がします。まだ14歳にもならないジュリエットの思いの深さ、力強さに励まされました。

しんせかい

芥川賞受賞の山下澄人さんの「しんせかい」、あとで読もうと思うといつも忘れてしまうので、雑誌「新潮」で読みました。

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私はほぼテレビを観ませんので世間一般の情報に疎くて、著者がどういうかたか全然知らない状態で読んだことと、前回読んだ「コンビニ人間」の印象が強く残っていたてので、主人公はすごく現代的な青年だと思って読み進みました。

語り手は、あまり積極的でない理由で、彼女と言えなくもない女性をそのまま地元に置いて俳優養成の学校に入るのです。学校と言っても、山の中に自分たちで作っている最中のもの。ある種の新興宗教のような世間とは違う常識で成り立った世界ですが、あまり説明がなかったので、これは実際にあった世界なのだろうと読んでいて思いました。

だからこそ、ひどく個人的な語り口で物語は語られていき、19歳から20歳の社会からいったん外れてしまう感じが、現代の若者っぽく感じられたのですが、いや30年前の若者も同じ、やっぱり普遍的なものなんだなぁと納得しました。

最近の読書会で若者たちと話しているとき、ふっと自分の若い頃の感覚が蘇ってくることとも一致します。時代よりも、年齢の差のほうが大きいのかなぁ…。異世代交流が難しいのは、年配者が昔の自分を忘れているのが原因かもしれないですね。

良い小説って、色々なことをごまかさないでちゃんと書いてあるんですよね。だから色々な発見があります。若者のみずみずしさがごく自然に書かれていて新鮮でした。

 

 

デンドロカカリヤ

若者たちの流動的読書会で、安倍公房「デンドロカカリヤ」について語り合いました。ずっと以前にも大人たちの読書会でとりあげた作品ですが、そのときよりもずっと深いところまで潜っていきました。また、若者の前向きな読み方に教えられるところもありました。とても面白かったです。

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たとえば、まず主人公のコモン君が個人的な植物化と闘っていきながら、それが自分だけでなく社会の問題だと気がつく物語だというはっきりした認識を持っていることにびっくりしました。(大人の読書会ではそう思わない人が多かったので。)

それでも、この物語から前向きに何かを学びとろうとするのです。

1つめ。闘うときの注意点として一人ではなく、仲間と手をつながなければいけないこと。

2つめ。感覚器官を鋭くして自分の外側の世界をよく見て、よく聞き、よく読むこと。

3つめ。自分自身については一番危険なのは社会と直に接している「顔」であり、頼りになるのは手であり足である。確かに、最初に植物化をするのは顔なんですね。裏返ったり、はげかかったり。

4つめ。これは私には盲点でしたが、恋愛すること。コモン君が一番元気だったのは、彼女の影が見えているときでしたっけ。

やはり若い人は冴えているんだなぁ…。というか、若い頃のことはやっぱり忘れてしまうんじゃないかなと実感。

今回の読書会、私はもっとソフトな作品を考えていたのですが、若者たちの希望でコマの作品になりました。

(最初、カフカの「掟の門」と言われ、初めて来るかたに朗読を聞いて参加してもらうには、もう少し具体性のあるもののほうが…とお願いし「デンドロカカリヤ」に。)

高校生の読書会でも、小学生の絵本の読み聞かせでも、大人の感覚で甘口のものばかり選ぶと、子どもたちの読書離れを助長してしまうというのはいつも実感します。大人はなかなか自分が頭の回転が鈍くなっていることを自覚できないので、つい上から目線になってしまうのですよね。自分の若い頃を考えたって、今よりがんばって難解な本を読んでいましたよね。

保護色猫 見られ方と見え方

明日は雪が降るかもしれないんですね。さすがに寒くなってきました。

昨夕は森でまた保護色猫を見かけました。これは、自分でわざわざ木の根元に入って保護色を意識しているのではないか…?

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そう考えると、先日のもやっぱり石のふりをしていたのではないかと思えてきます。

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なんか猫の観察ばかりしていますが、森を歩いていても、犬を観察する機会がないということが理由にほかなりません。犬の方が人間に近く、猫の方が自然に近いのかな?

私はいまだにガラケーを使っているので(別にそういう主義というわけではなく、ただ面倒なのと経費がかかるのが嫌なのとで)すが、ブログに写真をアップするようになって、むしろガラケーのカメラが面白いなと思うようになりました。

カメラのズームもきかないし、あれこれ調節もできませんが、そのまんまその時の自分が見ていたものに近いものが撮れることから発見があるんです。印象と写真がほぼ一致していることもあれば、ものすごくギャップもあることもある。たぶん自分で無意識的に調節して見ちゃっているのでしょうね。

上の写真でいうと、昨日の木の根元猫は夕方、石猫は朝でかけるときに見かけました。きっと朝の私の方が元気でつい猫に近寄っているのですね。猫のほうもこちらを意識してかなり警戒色が高まっている感じ。猫との距離感もはっきりわかるようです。

先日友人たちと静物をスケッチするという機会があったんです。といってもほんの戯れだったので5分という時間に限定しました。

私はふと目にとまった植物や虫を思わずスケッチすることはよくあるのですが、そういう空間をわざわざつくるというのは久しぶりだったので新鮮でした。そして、描いてみて勝手が違うことに驚きました。

それで、あれ、もしかしたら、私の見方は変わったかも…と気づいたのです。そのものの特徴にももちろん目がいくのですが、関係性とか距離が気になって、そこばかり描こうとしているんです。これは昔からですが、時間ということも気になってしまって、時間を一生懸命描こうとしてしまう。これって小説の描き方なのかもしれない…?

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これもまたいいかげんなガラケーの写真です。

デンドロカカリヤ

なかなかブログが更新できなくて、すみません。書きたいことはたくさんあるのですが、日々気をとられることが多すぎて、ついつい書かずに日がたってしまいます。

今も、まず連絡。

明後日20日(金)午後6時から、流動的読書会があります。今回は少し穏やかな作品をと思ったのですが、若者の皆さんの希望でまたハードな作品。安倍公房「デンドロカカリヤ」です。この作品、私もとても好きです。

2月は17日(金)になると思います。高橋源一郎『動物記』に入っている「文章教室1」をとりあげたいと思います。個の作品集を最近読んで、すごくよくできているなぁと感動しました。最後の「動物記」が私の年齢としては一番ぐっときましたが、読書会では若者向けを意識しました(笑。

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書かなくちゃならないことの筆頭に科博の「ラスコー展」のことがあります。色々なことを感じたし、考えました。でも、簡単に書けないんですね。

あ、単純に驚いたのは、滅びたと思われていたけれども実は私たちも遺伝子の一部を受け継いでいるらしいネアンデルタール人の女性の体形が、私とほぼ同じだということです。なるほどぉ、想像しやすいですね。

ラスコーの壁画に触発されて、15枚ほどの短い未来小説も書いてみたりしました。