物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

音で観るダンスのワークインプログレス

神奈川芸術劇場KAATで「音で観るダンスのワークインプログレス」という催しに参加してきました。

私はそれを開発するためのワークショップに一度しか出席していませんが、色々なかたが何回も集まって勉強したり試行錯誤してできあがった音声ガイド。それを使うことによって、目の見えないかたにもダンスを楽しんでもらうという企画です。

ダンス、ですからね。映画の音声ガイドはかなりあるようですが、ダンスというのはなかなか新しい試みのようですよ。

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当日ボランティアが必要と聞き、他には何もお手伝いできなかったので、思わず手をあげてしまいました。

と言っても、担当する全盲の同世代の女性を最寄り駅まで迎えに行って、一緒にひと通り催しに参加した後、再び駅までお見送りするというくらいのサポートです。

初めてでよくわからないのでそう言うと、何をすればいいのかきちんと教えてくださいました。助かりました。先日読んだこの本にも書いてありましたが、たぶん見えている人が多すぎる視角情報を処理しきれず目がくらんでいるのとは違って、過不足なく情報を処理して筋道立てて考えている印象。安心感がありました。

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サポートするときだけでなく、実際のダンスを鑑賞した後に感想をあれこれ会話してびっくりすることも多々ありました。特に、鑑賞するときの心持ちの大きさというのに驚かされました。

単に解説してもらって正しく理解したいのではなくて、どこが面白いポイントなのかを知りたいのです、と。つまり、ただ受け身に鑑賞する(それでは学校の勉強です)のでは物足りないので、もっと自分の参加して能動的にかかわりたいのだと。

ハッとしました。それ、私たちのピッピの読書会と同じです。読書会をするときに、ただ正しい読解をするだけではつまらなくて(それでは学校の勉強です)、どこが面白いかを発見しているのですよね。

その他、様々な気づきがありました。こういった企画は、目の不自由なかたをサポートするためだけでなく、晴眼者が一緒に鑑賞することによって逆にサポートしてもらうところもあるのではないかと思いました。

お好み焼き

今年の夏は家族みんな忙しくて旅行もできず、夏休みもあったのかどうか思い出せないほど。今日は偶然みんなの代休が重なったので、子どもたちと一緒に久しぶりに下町の実家に行くことになりました。

帰りに、子どもたちの希望で好み焼き屋さんに寄ろうという話になったのですが、月曜定休の店ばかり。お休みって重なるものなのですかね。いや、食べ放題の店ならあるよ、と両親に聞き、行ってみることに。

大人1100、高校生までは1000円という破格な安さでした。それに、なんだか懐かしいような落ち着くような空気がある。いつも無意識に入っていたらしい力がふっと抜けました。これが地元っていうものなんでしょうかね。

お好み焼きも妙に懐かしい味。そうそう、お好み焼きって、こういうものだったなぁと思い出しました。次々と子どもたちが頼むので、みんな焼いてもらっちゃいました。たまにはこういうのもいいですね。

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右はもんじゃです。ネギもんじゃと切りいかもんじゃを頼みました。こういうのを中高生の頃によく食べましたっけ。

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焼きそばも無料だそうなので、頼んでみました。全体に無駄な油がなく、あっさりしていてヘルシー。子どもたちが調子にのってどんどん頼んで焼くのにつられてたくさんいただきました。

最後は甘いものです。あんことチョコ。

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マイナスより生みだされるもの

アンソニー・ドーアの小説に、目の見えない人が出てくる作品がいくつかあることが切っ掛けだったのだと思います。目が見えないというのはどういう状態なのだろうと無意識に興味を持っていたみたい。

そういう私の気持ちを察して、友人が『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本を貸してくれました。読んでびっくり。謎が少し解けたような気がしました。

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見えない人にとって、触覚はとても大事なのでしょうけれども、触覚に過度に敏感ということとは違うというようなこと。単純に欠けたところを別の部分で補っているというわけではなくて、まったく別の感覚を持っているということです。

以前、ピッピの読書会でエリック・カールはらぺこあおむし』の絵本をとりあげたときのこと。分厚いページの葉っぱやら食べ物の絵に穴があいているというのが美術系の人の触覚に訴えるという話になったのです。なぜかわからないけれど、絵を描く人には色々なことを触覚で強く感じる人がいるのではないか、と。

美術家のミズタマさんもそうらしいですが、私もそうなんです。

ただ、実際に何でも触ってみたくなるということではなくて、触るように見ているというのかもしれないし、この本に出てくるように視覚が閉ざされているとものごとを立体的に把握してしまうという感覚にも近いと思うのです。そのために、わざと視覚を閉ざすということも習慣的にしているような気がするのです。

自分では昔からの習慣なのでよくわからないのですが、この本を読んで、少しだけ意識して考えることができました。つまり、目が見えないということがマイナスとばかりは言えないということです。視覚だけでなく、社会的にマイナイと思われていることが、個人にとってマイナスとは限らないのではないでしようかね。

アンソニー・ドーアシェル・コレクター』には盲目の貝類学者が出てきて、貝を触ったりするのですよね。どんなだろう、と思っていたら貝もいただきました。触り心地はだいぶ違いますよ。

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そうでした。気がついたら誕生日も過ぎていました。

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演劇ワークショップ打ち合わせ 抒情文芸

今日は地元の小学校に、演劇ワークショップの打ち合わせに行ってきました。1年生の3クラスで実施します。

その準備のために、昨夜、国語の教科書(上下)を読んでみたら、私たちが考える〈物語の中に入っちゃおう〉というワークショップとほぼ同じ手法で考えられていることがわかりました。とても、よくできているんですね。

そこに魔法をかけて、物語を生きている世界にする必要があるのですよね。そんな方法をあれこれ考えました。

子どもたちに、物語が生活に役に立つことを知ってもらえたらいいなぁと思います。

 

それから、今月の抒情文芸に、私の「滝」という小説を掲載していただきました。嬉しいことに、最近読書会メンバーになった平野さんの作品「終の棲家」も掲載されています。

創作にご興味のあるかた、ぜひぜひ読書会に参加してくださいね~

町田高校演劇「ミルク」

先日の多摩南の地区大会で見た「ミルク」を文化祭でもう一度観てきました。3年くらい前に時間通りに行ったら入れなかった記憶がありますので、かなり早めに行きましたがすごい人。

でも、普通のクラス劇も当たり前のように行列ができています。3年生のクラス劇も何本か見たのですが、技術がなくてもそれぞれのカラーや見せどころがあって面白い。「素敵な選TAXI」という劇は、構成や伏線処理など脚本がとてもうまくできていて驚きました。それを役者がみんなきちんとつかんでいて、その役に入り込めている。こういうのって、何でしょうね、イタコみたいなものかな。

小説を書くのもそうで、その登場人物に入り込めないと書けません。というか、そういうのをやって人々に見せ、物語にまとめてひとつの事柄としてみんなが記憶できるものにするのが小説の役割だし、存在価値だと思いますけどね。

そう考えると、たぶん高校生という年齢に身体的な表現方法が合っているのだと思います。将来を模索して全身を使って動いている人たちですからね。唐十郎じゃないですけれど、特権的肉体論みたいなことでしょうか。プロとして一つの方向に訓練された身体ではなくて、色々なことを目指している個性が生き生きと動いている様子に、観客は魅せられ、世界を広げてもらえるのですよね。

私自身、都立高校生だった時代に、なぜか技術も何もまったくないまま勢いでクラス劇の脚本を書き、まともな文章も書けないまま小説が書きたいと切に求めたものでした。向こう側に行きたいというどうにもならない欲求、欲望。あれは何だったのでしょう。大人になると、そういうエネルギーがなくなるだけじゃなくて、切実さがなくなりますね。なにしろ現状を変える必然性がないわけですから…。

あ、で、「ミルク」ですが。

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2日目最後の公演を観たのですが、地区大会のときよりも迷いがなく、熱が入っているのを感じました。内容を知っているのに衝撃を受けました…。

この演劇の特徴はよくある高校演劇のように若い人だけが出てくるのではなく、色々な世代の人が登場し、メッセージも色々な世代に向けてなされていること。大人に単純な反抗や依存をするのではなく、違う人間と考えて自分の人生を生きていくという宣言をしているように受け取れました。大人世代の身勝手さに憤りを感じつつも、最終的にそれを静かに認めるという姿勢です。

上から目線で若者を見ている大人にとっては、そういう彼らの視線が少々痛くも感じるかもしれませんし、年長者に依存する若者にとってはストレスを感じるかもしれません。

脚本はそうとうに練られていますし、音楽や美術など総合的に考えられたおしゃれな演出で仕上げられているところ、とんでもなく正統派演劇です。

ただ、だからこそ、この作品に大事なのは熱量だし、高校生が演じるということだと思うのです。まだ発展途上。もっと良くなる作品だと思いました。上の大会に行けると良いですね。

社全協全国集会と高校演劇「ピアノ」「ミルク」

昨日、今日と、今年も社会教育研究全国集会の神奈川集会に参加してきました。

場所は相模女子大です。緑が多くとても気持ちの良いキャンパスでした。でも、もとはこういった場所だったのですね。知りませんでした。

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例年、余裕がなくて公民館分科会にしか参加しないのですが、今回は月曜日の課題別学習会にも参加してきました。「『やまゆり園』殺傷事件から今日の人権問題を考える」というテーマです。

この事件に注目してあれこれ検証するのではなく、この事件を考える上で様々な立場や視点からの考えを知ることができ、発見も多々ありました。単純な解決法というものは狭い視野に立っていることが多く、生理的な恐怖を感じますが、多様な視点には安心を感じるものだと実感しました。

こういった事件に限らず、複雑な物事はきちんと複雑に考えることが大事です。発表をされた全盲のかたが、まず将来のヴィジョンを持って長期的に考えることが大事だとおっしゃっていたのが印象的でした。

 

そうそう、忙しくて書いてませんでしたが、26日は多摩南地区の高校演劇の大会には2日目にも行ってみましたんですよ。つい、夢中になってほぼ全部観てしまいました。

印象に残ったひとつは晃華学園の「ピアノ」です。

第二次大戦中に勤労奉仕をする女学生のお話でしたが、この学校が中高一貫校ですので女学生たちは中学生たちが熱演しており、高校生とは違った年若い人のそういう姿は妙に胸にこたえました。高校生というのは何か一線を越える世代なのでしょうか。

もうひとつは都立町田高校の「ミルク」です。偶然にも私が最近作った詩集と同じタイトルですが、まったく関係ありませんでした…当たり前か。観てみて、このタイトルしかないかと思いました。

一応、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をベースにした脚本なのですが、全然違う親の離婚と再婚によって悩む兄と妹を描いた物語になっていて、そのギャップが面白い。背景も、銭湯があるような古い商店街のお好み焼き屋さんと望遠鏡でのぞく星座の世界とのマッチングがユニークです。色々な意味で出来る限り幅を広げた表現なのですが、若者らしい独特なバランス感覚で上手にまとめられています。

観ているときには、そういった多くのイメージや場面や色々な立場の人物がバラバラである印象を受けましたが、見終わってみたらそれらが絡み合っている不思議さ。ミルキーウェイ(天の川)に溺れるシーンもありましたが、コロイド粒子が等間隔に混ざり合って牛乳になっているような感じです。たぶん色々な人の意見を取り入れているのでしょう。

そして、それを可能にする斬新な演出が際立っていました。加えて、音楽や美術の面白さ、マイムやストップモーションの確かさ、何よりダンスがめちゃめちゃきれいで見ているだけで気持ちが良かった。それこそ、ひとつの視点でなく、多様な視点で世界が描かれています。

町高演劇部は一昨年の「はなさかさん」を観て感激して以来ファンになってしまいましたが、筋で語るのではなく、それぞれの登場人物を丁寧に描いていく手法が面白いです。代が変ってもそれを受け継いでいるのだなぁと嬉しく思いました。

高校演劇地区大会「朝が来て夜が来ること、夜が明けて日が昇ること」

今年も、多摩南地区の大会が桜美林大学プルヌスホールで開催されています。実は身内が出ているということもあるのですが、それ以前に高校演劇はその年その年の傾向があって大変勉強になるので以前から足を運んでいます。

今日はその初日。出演校も増えているようですし、今年はどの作品にも独自の見どころがあって、レベルが高くて驚きました。……もしかしたら、若い方々は物語が大事ということに気がつきつつあるのでしょうか? だとしたら嬉しいな。

特に、最後に上演された桐朋女子「朝が来て夜が来ること、夜が明けて日が昇ること」には心打たれました。西暦2100年、感情を持つようになったAIが自分は何者か、人間とは何者かについて考えていく内容。過去の記憶を持たないAIの視点で若い人たちの世界を見ていくという設定も自然でとても良かった。

最近は人工知能が小説を書くなんていうこともできるという話(まあ、完全オリジナルではないようですが)もあり、ちょうど気になっていたテーマではありました。自分たちの生活領域を脅かすAIというものに人間は反感を持つものらしいのですが、そのあたりがAIの視点で語られることで見えてくるものがあります。それって、物語の基本的な手法だなあと。

若い方々から学ぶことは多いですね。明日も行ってみようと思います。