物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

一所懸命さ と J.M.クッツェー

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 中学校の体育祭を見学しました。ほんの何年か前に行ったときは自分が本気で走ったらまだまだ負けないのではないかと思ったのですが、今回はもう絶対に勝てないなぁとしみじみ実感しました。いや、愕然としました。まさか以前見た子どもたちより、今回の子どもたちのほうが力が数段上というわけではないと思うのですよ。当然のことながら、自分が年をとって衰えたということなんでしょうね。何年か前より元気になったつもりでいたけど、それとはまた別の話なのかな。

 子どもたちが必死で走っている様子を見て、その一所懸命さがとても美しく見え、ひどく心打たれました。心が洗われるような。そして、今後、自分はどこまで頑張れるものだろうかとちょっと不安になってしまいました。

 でも、まあ、全力疾走は無理でも、まだできることはたくさんあると思うのです。また、やり方もいろいろあるとは思うのです。ただ、心から一所懸命になりたいものだなと思いました。

 J.M.クッツェー『鉄の時代』(『ブリキの太鼓』と同じ文学全集に入っています)を読み始めました。主人公の女性は末期癌の宣告を受けた70歳の女性。でも、最初からこの女性は生きることに前向きです。いや、そうじゃないですね、一所懸命なんです。その前に、男性である著者クッツェーが女性の心理に迫ることにどうしてこんなに熱心になれるのでしょうね。 

  

 認知症の高齢者が急増しているという新聞記事を読みました。予備軍も含めると、65歳以上の4人に1人だとか。これだけ社会が高齢化しているのだからもちろん認知症も増えるだろうと思いますが、気になったのは、ほとんどの年代で女性のほうが有病率が高いこと。グラフを見ると、90代半ばを過ぎると男性は5割なのに、女性は8割を越えています。

 …なんだか、女性は何でもほどほどに、適当に、済ましてしまう生活習慣が災いしているんじゃないかなぁ、なんて思ってしまいました。なかなか自分の能力を出し切っては頑張れないのですよね。(6/4追記)

 『鉄の時代』はクッツェーの本なので用心して読んだのに、衝撃を受けました。先日、読書会でとりあげた『恥辱』はこの小説の延長線上にあるんだと気づきました。

 舞台は80年代後半、アパルトヘイト政策が終焉を迎えつつあった、だからこそ悪あがきしていた時期の南アフリカの白人居住地区。ここで、病の末期的症状を抱えながらも病院から出てしまう70代の女性カレンが語り手です。彼女がアメリカで暮らす娘に遺す手紙…というか遺書がこの小説なのです。

 本当に届くのかどうかわからない手紙ですが、娘に向かって語られるその言葉はどこまでも丁寧に綴られていきます。時には緊迫感の中、そこに起こった現実世界が生々しく描写されます。語り口調は切実で、作者によって直接読者に伝えられていると感じられるほどした。

 著者が40代後半に書かれた作品らしく、ちょうど私と同じ年代だからなのか、痛いところにびしびし伝わってくる感じ。年譜を見てみたら、この頃に両親を亡くし、長男も失っているんです。それがどういうことなのかわからないけど、多くの実体験をともなっている文章なのだろうと想像しました。世界の厳しさと比べれば私は生ぬるい環境にいるのだと思いますが、それでも両親と子どものことには真剣に対峙せざるを得ないことともつながります。

 それから、女性である主人公カレンの感情、心の揺れが血肉をともなって描写されていることには、本当に驚きます。女性が越えられない足枷のようなものまで。恐るべきノーベル文学賞作家。(6/6追記)

★★★

※ところで、6月7日10時~フォーラムの活動は、何かワークショップもやりませんか? 読書案内『ピッピのくつした』の編集会議はまだ編集委員も募っていないので、そんなに進めることはできませんよね。

※日は決まってませんが、9月は村上春樹風の歌を聴け」の予定。