物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

「海を渡ってきたわが子」

 前に紹介したアメリカの作家レイモンド・カーヴァーの伝記を、やっと600ページくらいまで読みました。電話帳みたいな本。長いんだけど、面白い。

 カーヴァーはワーキングクラスの出身で、その背景となる文化から逃れられなくて、アルコール中毒になったりするんです。それだけでなく、10代の頃の結婚生活は純愛ってイメージですが、共依存の関係も含まれていたんだなぁというの、なんとなくわかりました。そういったことがずいぶん小説の題材になっている。だから読者は面白いのだし、癒されるのですが、当事者(特にパートナーと子どもたち)だったら辛いでしょうねぇ。辛くても良い小説が書けることが、作家であるカーヴァーには喜びだったのでしょうけども…。

 でも、人生経験を積んだ晩年(40代)に出会ったパートナーとの関係は、その共依存を回復していくプロセスになっているみたいです。どっちの妻が良いとか悪いとかいうことじゃなく、パートナーのカーヴァーに対する態度が違ってくると、少しずつ夫婦関係が変わり、その他の人との関係も変わっていくんですね。自信をつけ、正しいと思うことを相手に言えるようになっていく。…でも、カーヴァーは優しいから、少しだけしか言わないのでしようけど。

 でも、そうやって社会で少しでも渡り合っていくための強さを持つためには、支えてくれる文化(教育と経済力)が必要なのかなぁと思ったりしました。

 いや、優しさと強さ、相反するものが両方あることが、成熟した人間の証なのかなぁ。

 

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 そんなカーヴァーの伝記と平行して読んだのが『海を渡ってきたわが子』キム・スコグルンド編 徐凡喜訳 坂井俊樹監訳 梨の木舎(2013)です。〈韓国の子どもを育てたスウェーデンの親たち、9編の実話〉とサブタイトルがついています。1960年代から70年代に韓国の孤児がスウェーデンの里親にひきとられることが多かったようなのです。

 差別もほとんどなく、本当の親子のように育てていることに、血縁だけに固執しないスウェーデン人の心の自立心と余裕を感じました。韓国や日本とは違う文化があるんでしょうね。親子でもあまり共依存的でなく、個が自立した関係なんでしょう。相反する文化を持つことになるのでしょうかねぇ。

 アイデンティティの確立する思春期、子どもたちはかなり強く揺さぶられるようです。複雑な生い立ちの中、自分が何者かを見つけるのは、大変なことなのでしょう。そこを乗り越える逞しさに、何か、世界に共通の希望が感じられるような気がしました。スウェーデン人にとっても、韓国人にとってもいいことなんじゃないかなぁと。

 そういったことがこの本の事例を読むとはっきりわかるのですが、本当は、生まれた国に住む実の親子でも、思春期には同じプロセスが必要なんですよね。みんな、それぞれ違う人間ですからね。

 精神科医である編者も最初は「日本語版が出版されるという話が持ち上がった時、最初は疑問に思えた。日本の社会が果たして、海外養子縁組みについて関心を持っているのか?」と思ったようです。でも、日本にも「国内養子縁組みが行われているのは勿論、一人の子どもが立派な成人に成長するまで乗り越えないといけない困難が存在する」のだと思い直したそうです。

 思春期の本質を考えるのに参考になる本です。