物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

新しい広場をつくる

わたしたちのやっている市民活動を今後どう展開(継続)していくかということは、経済的にだんだん厳しくなる状況下、年々工夫が必要になっています。

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そんなことをあれこれ考えている中、平田オリザさんの『新しい広場をつくる』(岩波書店)を読んで、なるほどなぁと思いました。ヒントが隠されているような。

面白かったのは、引用されていた仏社会学者ピエール・ブルデューによる「社会資本」という概念。社会資本には以下のような三種類があると考えるらしいのです。

 

1.「客体化された形態の文化資本

   書籍、絵画、骨董品等の客体化した形で存在する文化資本

2.「制度化された形態の文化資本

   学歴、資格、免許等、制度が保証する形態の文化資本

3.「身体化された形態の文化資本

   礼儀作法、慣習、言葉遣い、センス、美的性向など

 

コミュニケーション能力が重視されるこれから、たぶん、比重が高くなるのは3番目の「身体化された形態の文化資本」なのでしょうね。付け焼き刃では習得不可能なこの文化資本の格差が開いていくのではないかと書かれています。特に、経済、親の学歴、家庭環境もあるけれど、地域間格差が絶大ではないかと。

確かに、文化的なことを味わおうとすると東京になってしまうことはありますね。医療を受けることの地域差と比べると、これはかなり大きいのではないかと。医療に比べて、「文化資本」はそれほど必要じゃないと思われているところが大きいのですね。これ、とてもわかりやすい比較だと思いました。

また、努力して「文化資本」を身につけようとしてもうまくいかないところがあるんですよね。つい他者との競争原理を働かせて「文化資本」獲得に走ると、どうしても中央志向というか、立身出世をめざすみたいな方向になってしまうのですよね。

こんなことをしていると、ますます「文化資本」を失っていくし、ますます「文化資本」は中央に集中してしまいます。

なんだか、これって、現在ある生活の閉塞感そのもののことを言っているような気がしました。そして、わたしたちのグループの活動は、この閉塞感を少なくして、生活を豊かにしようということなんじゃないかなぁと思います。

そんなことを考えつつ、活動内容についても話し合っていけるいいですねぇ。

 

実は、そんな関連で、今年の『ユリイカ』1月号の〈この小劇場を観よ!〉の特集の前田司郎さんのインタビューを読んでみたのです。これも、とても面白かった。

山の頂点を目ざすということ、つまり、表現がどんどん上手になって、洗練されていくことは、平均化してつまらなくなっていくことなんじゃないかと。それよりも山を降りていくことに人間の原初性を模索する道があって、そこにも普遍性があるのではないかと。

 

「洗練の頂点を目指す場合は、その普遍性は、もしかしたら死に向かっていくことかもしれない。ということは、山を降りるっていう非洗練の行為は生に向かっていくってことじゃないかと思っています。」

 

この感覚はわかるなぁと思いました。