アナと雪の女王
さて、あれから『アナと雪の女王』を見ました。
見る前から色々な人の話を聞いて知っている気になっちゃっていたのですが、あれ、こういう話なんだ…と、ちょっと意外な気がしました。もっと単純な物語と思っていたのだけれど、複雑な作りなんだなぁと。
アナがあまり主人公らしくないのは、いまひとつつかみどころがなくて、感情移入しにくいからなのか? …そういえば、みんなが歌っているのもエルサが歌っている曲でしたっけ。あの歌に共感する人が多いのでしょうかね。
「ピッピのくつした」の特集にもとりあげた通り、思春期というか大人になるということが裏テーマなんだなと思いました。そうだと考えても、やはり、アナよりも戴冠式を迎えるエルサの物語なんですね。
子どもの頃、両親に手袋を渡されることで自分の能力を封じ込めるのと同時に、自分を封じ込めていたエルサ。彼女には世界が歪んで見えているようです。たぶん、そのモチーフはアンデルセンの「雪の女王」に出てくる悪いトロルの鏡の欠片が刺さっているということなんでしょうが、思春期というのは世界がまともに見えなくなってしまうもの。
エルサにとって戴冠式は最初から気が進まないし、アナのことも、他の人たちも、あまり好ましく見えていない。と言うより、長年心を閉ざしてきてしまって他人に関心がなくなっているので愛を忘れてしまっている。エルサに愛がないのは、それまで愛された経験がなかったからなんでしょうか?
両親の描写はちょっとよそよそしく、その死の場面もあまりにあっけなく過ぎていきます。エルサの心には両親に愛された記憶よりも、魔法を封じ込めるよう言われたことばかり強く残っているのかもしれません。ここ、アンデルセン風に考えると、やっぱり鏡の欠片が刺さって物事がまっすく見えなくなっている状態のような気がします。
ハンス王子の裏切りの心の動きはちょっと理解しがたいし、アナが誰を愛しているのかわからなくなる不安定さも、半分はエルサの見方が投影されているようにも感じられます。
すべてを凍らせてしまう魔法はエルサの才能とも言えるけれど、愛が欠けているせいでやむを得ず身につけてしまった能力とも言えるのかもしれません。アナの心に刺さった氷が真実の愛で溶ける、という理屈もそのせいなんでしょう。
愛がないことで、物事が正しく見えなくなってしまう。
実際には、鏡ならぬ氷の欠片が頭に刺さって記憶を操作され、最後に心にも刺さってしまうのは、エルサではなくアナです。
そう考えると、エルサはアナと実は一人格の中の対立する側面を表しているようにも見えてきます。
閉じこもろうとするエルサと、開こうとするアナ。禁じられ抑圧されているエルサと、楽しい記憶だけのアナ。人と関わりたくないエルサと、恋愛したいアナ。逃げるエルサと、追いかけるアナ。
分裂し別方向に向かった人格が、向き合うことで初めて自分を認識する。思春期に分裂した人格が大人になるべく統合されて完成するということを表しているようにも思えました。
どちらにしても、「愛」というのは一方的愛されることで成立するものではなくて関係性の中で確かなものになるのだと思うんですよね。
今までのお姫様のように一方的な王子様の愛によって救われるわけではないところが現代的なのでしょうか。
でも、相手は男性ですらないんですね(笑。やっぱり人間の中にある両側面なのかな。
クライマックスのシーンでアナに愛されていると実感できて初めて、エルサはその愛に反応して自分の中にある愛に気がつくことができたのだと思いました。そのあたりも、恋愛をする前の人格形成の時期の物語のようにも感じられました。
この映画で一番言いたいのは、何ごとをするにも愛が大事だということなのでしょうか。愛のない目には、物ごとはすべてが歪んで見え、何が正しいのかわからなくなってしまう。アンデルセンが「雪の女王」で言っているのもそのことですよね。