物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

リアリティのダンス

先日映画を観たアレハンドロ・ホドロスキーの同タイトルの自伝『リアリティのダンス』(青木健史訳・文遊社)です。

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この本、500ページもあるのと、何やら不可思議で怪しげな世界について語られているのでなかなか読み切れません。帯には著者のいくつもの経歴が書かれていて、それだけでも、いったい何者?と思います。

まず映画監督なんだけれど、その他にも「詩人、小説家、漫画原作者、演劇人、マイム役者、人形遣い、画家、タロット研究者、そして、サイコテラピスト」と。今、ちょうど人形遣いのところを読んでいますけれど、つい、怪しげな宗教臭をかいでしまいます…。

でも、ちょっと待てよ。

昨日の社会教育・公民館分科会の「劣等感に苛まれている人々がどうやって自分をさらけ出せるか? 本音で語り合うことができるか?」という公民館の特徴的な学びの話と通じるような気がしてきました。

公民館の特徴的な学びというのは、社会の弱者(自分で自覚しているかどうかとは別に)である人々が本音で語ることによって、自分の課題を見つけて学び、また、仲間をつくることを可能にし、自己を回復していくということ。

私たちのグループでも常に新しい仲間を加えて公民館で学習活動をしてきましたが、本音で話をする方法をとっているので、最初に参加した人にはよく宗教と間違われるのでした。なんでかなぁと思っていたんですけどね。だって、宗教とは一切関係ないんですから。

たぶん、本音で話し合う関係というのが、社会にはあまりに少ないということなのかな。特に、弱者である場合には。

で、『リアリティのダンス』なんですが。

子ども時代の著者は、空想の中で想像上の人物にこう言われる。「おまえが生まれたのは、おまえのものではない目的を押しつけてくる大人たちに矯められて、彼らが意図したとおりの人間になるためではない。人生が与えてくれる最大の幸福は、おまえをおまえ自身にたどりつかせてやることだ。」

実際には虐待が再生産されていくように、不幸の連鎖というものは代々続いていくわけですよね。差別が更に新たな差別に委譲されるように。

「人から嘲笑を受けたせいで、私は私を蔑むような友人を求めた。愛されなかったせいで、けっして私を愛さないような人と関わろうとした。想像力を嗤われたせいで、自分で自分の値打ちを疑い、気落ちした。」

だから、負の連鎖を切って、自分の立ち位置から新たに変えていこうと思うわけです。

あるとき、著者はマリオネットを作ることになります。細かく切った新聞を煮て小麦粉を入れて作ったペーストで、ストッキングにおがくずを入れたものを芯にして。それで「親族との関係を自分なりに創りだそうと思い立ち」彼らの人形をつくって、芝居をさせます。

すると「私の手が人形と融合するにつれ、それは命を持って存在しはじめた。私の声を貸したとたん、彼らは思いもよらなかったことを語った。」

そして「本質的に、彼らの言うことは自己正当化だった。彼らに対する私の批判を不当とみなし、私のことを愛していたと言い張って、最終的には嘆き悲しみ、おまえこそ我々を失望させた、謝れ、と迫るのだ。」

「気づいてみれば、私の不満は利己的なものだった。」

そう気がついて「誠意を込めて、私は彼らに謝った。」たとえば「父さん、ごめん、大学を続けることができなくて。あなたが自分の社会的な劣等感をぬぐい去り、コミュニティーの尊敬を集めるためには、僕が医者か弁護士か、建築家になるほかなかったのに……。」と。

「そして今度は人形だちが私を許す番だった。一体一体の人形を私は泣きながら手に取って、私も再度、ひとり、ひとり、心の親族を許していった。」

このプロセスはとてもよくわかります。個人的にもやったことだし、公民館の学びとしても必要なことだと思ってきましたからね。

「不思議なことに――おそらくマリオネットの魔力だろう――、私が関係を結び直そうとすると、両親の態度も理解と愛情のこもったものに変化した。」

 というわけで、129ページまでしか読んでいませんが、著者が自分を変えようと行動するところ、とてもよくわかります。

意外なところから、社会教育の話になりました。本当は公民館と関係なく、成熟した人間として自然に行うことなのでしょうね。