物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

火星から来た男

今日の読書会は、午前が『三びきのこぶた』で午後がル・グィンの『オメラスから歩み去る人々』でした。どちらもよくよく考えると、欧米人的な感覚に無理をしてついていっているところがあるのに気づいて、それじゃ、日本人的感覚って何なんだろうと考えてしまいました。

たとえば、もともとの昔話に忠実に、最初の2匹のぶたがまんまとおおかみに食べられてしまう残酷さが受け入れがたい、とか。でも、それはもともとぶたを食べない日本人の感覚のせいかもしれなくて、魚だったら違うのかな、とか。現実には、今の私たちはぶたを食べているわけですよね。だから、魚も切り身しか知らないとしたら、同じなのかな、とか。

『オメラスから歩み去る人々』は、オメラスという街の繁栄が、ひとりの悲惨な子どもへの差別の上に成り立っているという状況を寓話的に描いた短編。その事実を知った若者は何日も泣いて暮らしたとしても、たいていはその状況を受け入れていく。でも、ときどき歩み去る人がいるわけです。

それでは、私たちは受け入れる人々なのか、それとも、歩み去る人々なのか。でも、もしかしたら、それ以前に、差別される子どもであると考えられないだろうか。

なんとなく、今読んでいる『存在の耐えられない軽さ』を思い出しました。この本はとても刺激的なのですが、気になる箇所が多すぎてどこまで紹介できるかわかりません。読み終えたら何か書きますね。

今夜は『存在の~』はお休みして、マーガレット・アトウッドの短編集『ダンシング・ガール』の最初の作品「火星から来た男」を読みました。

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背が高すぎて、筋肉室で、モテない女性が、なぜかアジアの国から来た不気味な男につきまとわれる話。それがまた強烈なんです。でも、主人公は、同国人だったらためらわずに警察に届けるけれども、異文化かに来た彼を通報するなできないのです。

一見、全体にちょっとまのぬけた話のようですが、読み終えて、なんて悲しい物語なんだろうと思いました。これを読んだら、『存在の耐えられない軽さ』は激しく男性的な視点で書かれた小説なんだなぁ、と。

この土日に読んでみますね。