物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

存在の耐えられない軽さ

ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」を読みました。最初は、あまりに厳密に考えようとする理屈っぽさに(そういう思考に慣れていない日本人として)なかなかついていけなかったのですが、いや、ついていかないといけないな、と現代人として考え直しました。

そして、(最初からそうだと思っていたけれど)読んであらためて、これはもう世界的な傑作だなと思い至りました。何に一番感動したかと言えば、複雑でいて無駄ない小説の構成です。その思考力。(…小説って、私は思考力だと思いますよ。思考しない小説を読むのは時間つぶしみたいなもので。)

そして、これらを予定調和的に構成したわけじゃないというところ。まあ、思考とは、わからないことを思考するわけで、結果がわかっていることを思考なんてしないので、当たり前のことですけれどもね。

訳者西永良成氏のあとがきによると、クンデラは『小説の精神』という著書でこんなふうに定義しているらしいです。

小説は「主要な散文形式。この形式において作者は、さまざまな実験的自我(登場人物)を通して、実存のいくつかの重要な主題を徹底的に検証する。」

作家は「手探りの状態で実存の未知の側面を明らかにしようとする探索者である。」

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私は今回、河出書房新社刊の世界文学全集で読んだのですが、びっくりしたのは、本書は、西永氏がこの全集のために新たに訳すと知ったクンデラが2006年に訂正したものを底本としていることです。できるだけ完全な作品を遺したいという意志を持つクンデラは、機会あるごとに熟考し、訂正しているようです。さすが。

小説の中、主人公トマーシュの妻になるテレザがトルストイの『アンナ・カレーニナ』を持っていることから、最後まで重要に役割をする飼い犬にカレーニンという名前が与えられます。

『小説の精神』という著書に、トルストイが『アンナカレーニナ』を書きながら、自分の考えに反した方向に最終稿を書き換えていったことが書かれているようです。

クンデラの言葉は、こうです。「彼は、私なら小説の知恵と呼ぶものに耳を傾けていた。およそ真の小説家ならみな、この超個人的な知恵に耳を澄ます。このことが、偉大な小説はつねにその作家より少しばかり聡明であることを説明するのであり、みずからの作品よりも聡明な小説家は、職業を変えるべきだろう」

う~ん、ここまで言えると気持ちいい(笑。

小説の内容についても、少しだけ。

この小説の大きなテーマになっているのが〈キッチュ〉です。キッチュとは、俗悪なもの、芸術を気取るもの、という意味だと思いますが、それだけじゃくて、小説では全体主義につながるものと考えられています。

小説の中では面白い説明の仕方がされています。たとえば、自分の幸せは子どもたちだと思っている紳士がこう思うとします。

「なんて美しいんだろう、芝生の上を走っているちびっ子たちは!」

これは個人的な心の動き。そして、
「なんて美しいんだろう、芝生の上を走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」

この2番目の感動の涙がキッチュキッチュたらしめると。

また、この件については、トマーシュの愛人であったサビナがまた面白いことを考えていきます。彼女は画家で、トマーシュが妻を追って本国に帰ってしまったのとは違い、外国に亡命します。

「彼女はこれまでずっと、自分の敵はキッチュだと言い張ってきた。しかし、彼女はその存在の奥底に、みずからキッチュを持ち運んでいるのではないか? 彼女のキッチュ、それは愛情あふれる母親と知恵に満ちた父親が君臨する、平穏で、甘美で、調和のとれた家庭の光景だ。そのイメージは両親の死後彼女のなかに生まれた。自分の人生がそんな美しい夢とは著しく違っていたから、彼女はいっそうその魅力に敏感になり、テレビのセンチメンタルな映画などで、恩知らずな娘が見捨てた父親を腕に抱きしめたり、黄昏時に幸福な家族の住む家の窓が輝いたりするのを見ると、目頭が熱くなるのを感じることが再三あった。」

このへんは、とてもよくわかります。