物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

エレファント・ソング 昨日の続き

映画というのは、観て一日たつと消化されてくるものなのかわかりませんが、最初の印象が強化されたり、ひっくり返されたりことが多いです。…というわけで『エレファント・ソング』を観て一日たってみると、昨日よりずっと強烈な印象です。決してアンハッピーなラストではなかったと思うし、良い映画だったなぁ…とじわじわきています。

無駄のないかっちりした戯曲の中で、それぞれの登場人物たちが精一杯その人物として生きている。自分を表現している。まず、そこが良かったのだろうと思いました。

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映画にはいくつもの回想シーンが挟まれるものの、担当医の失踪をめぐって、その謎を知っていると思われるマイケルと院長のグリーンとの密室での計算しつくされた心理劇が軸になっています。二人の会話で物語が進行していくのです。

と言っても、言葉だけでなく、体も小道具も使えるものはすべて使って表現することになります。頭の良いマイケルが辛抱強く丁寧に順を追って伝えようとすることで。また、グリーン院長が逃げ出さずにマイケルを対等な立場として扱おうとする誠実な姿勢によって。

最初はその二人の言葉のトーンの調整がきかず、不協和音が響きます。それが少しずつ、それも微妙なところに噛み合っていくのです。マイケルの計算によってだけ進むのではなく、予想外の人物の介入があり、実は、マイケルの計画が中断される可能性がありました。いくつもの結末を迎える可能性があったのだと思います。

一見、事務的に、または力で抑える形で問題を処理するかに見えるグリーン院長は、なぜか、マイケルの中にある真実に向かって、辛抱強くつきあっていきます。すべて自覚しているわけではないと思いますが、たぶん、個人的に抱えた問題に重ねてマイケルを見ているからです。

体験によって、世界はまったく別の形に見えてくるものです。院長にはマイケルに共感するところがあったし、対等に接することを心がけたのでしょう。だから、マイケルが伝えようとしたことは、グリーン院長に伝わったのだと思います。

 

コミュニケーションで一番有効なのは会話だと思いますが、日本人の会話が苦手なのは、なにも今始まったことではないと思います。この息の長いやりとりについていけないスタミナの足りなさがあると思うのですが、ここはもう一歩がんばらないと埒はあかないのですよね。

先日、漱石のイベントに行ったとき小説『明暗』の登場人物たちの会話には勾配があって、だんだんとまずい方向に下がっていくということを、エマニュエル・ロズラン氏がお話して下さったことを思い出しました。

→ 漱石の現代性を語る - 物語とワークショップ

ついでに、夜、娘や息子と一緒にグザヴィエ・ドランが出ているフランス語のテレビ番組を観てみました。それ、フランス語がわからないのに面白いんです。出演者の方々、言葉だけでなく手を使って表現しており、人に伝えようという気持ちが強いんだなぁと。なるほどね…。