物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

視力と聴力…感覚を開くワークシッョプ

昨年夏の終わりから悩まされている"耳鳴り&難聴”ですが、少し良くなったものの、肩こりとともにまだ続いています。集中力が阻害されるのと、やはり人の言葉がよく聞きとれないことがあります。すごく困っているわけではないのですが、困っていないわけではないというレベル。

そんな意識もあってか、吉田修一氏『静かな爆弾』を手にとりました。このかたの芥川賞をとった作品は読んだことがあったのですが、たぶんそれ以来でしょうか。まず思ったのが、文章が男性っぽいなぁと。ものの考え方ばかりじゃなく、風景を見る視点も男性的なのがむしろ新鮮でした。

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むしろっていうのはですね、私はかつてよく言われた文学少女(古いっ!)ではなく、もともとは美術系だし、頭は理系なので、マニアックに本を読んだりはしてこなかったのですが、それでも、文学って男性のものだと思って育ちました。小説の主人公はたいてい男性なので、その男性の視点で物事を見ることばかり学んで、女性の視点を学んでいないのです。これは、女性にとって不幸なことですね。

と思っていたはずなのに、最近は女性の小説が多くなったのでしょうか、女性の文章を読むことに慣れきっていたんでしょう。むしろ、男性的な文章がとても面白かった。報道関係の仕事をする若い男の視点で物語は進んでいくのですが、女性を見る見方だとか、その見方の女性とのずれだとか、はっとする記述が多々ありました。

その彼がつき合うことになるのが、耳が聞こえない彼女。男女のずれ以上に、彼女との間には大きな溝があります。というより、住んでいる世界が微妙に違うということがだんだんわかってきます。周囲には、ないようで差別心もあるし。

人々の"差別心”というのも、結局のところ、生活している次元が違うことから理解し合えない。それに対する、多数者側のイライラなのかなと思いました(自分たちが正しいと思い上がっている多数者は、気楽に違うものを「嫌い」だと言えるんですよね)。

彼には彼女をバカにする気持ちはないのですが、コミュニケーションをしようにも、そもそも無理だとあきらめてしまって言わないところがある。その技術がないんですね。でも、だからこそ、関係が続いていってしまうところもあるんです。今までは普通に女性に暴言を吐いていたようなことが、彼女にはできないから。

そんな彼女とのつき合い方と、世界とのつき合い方とか微妙に関連しているということが描かれているわけですが、耳が聞こえない彼女のことを想像することで、それが理解しやすいのでしょう。この小説の舞台となっている3・11以前の社会にあった不安感を不意に思い出しました。3・11のせいで忘れていたけれど、続いているんですよね。

まっとうな小説には、ストーリーと関係ない時代背景がきっちり描かれているものなんだなぁとしみじみ思いました。

 

もう一冊、同時期に読んだのがギルバート・アデア『閉じた本』(青木純子訳 東京創元社)です。文庫にもなっていますが、これは大きいサイズのほう。表紙のイラストがなかなかすごいなぁと思って。

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異国での交通で両眼を失ってしまった老作家。それでもめげず、口述筆記をしてくれる若者を雇おうと広告を出します。

この後述筆記者との関係から色々な謎が解明されていくというミステリー仕立てになっていますが、それよりも、この視力を失った作家の文章を書こうという執拗さが読みどころだと思いました。

面白いのは、語り手である老作家に目が見えないことから、地の描写がないのです。ほとんどの部分は登場人物のセリフであり、その作家の人の言葉で情景が描写されていきます。特に、老作家が頼んだことで、口述筆記をする青年が周囲のあれこれについて語ることで、読者にも情景が見えるのです。なるほどと思いました。

盲人と小説の読者が同じだという、老作家の考察が面白かった。また、視力に頼っていると気がつかない、物事を察知する感覚についても考えさせられました。

 

そうそう、今度、感覚を開くというテーマで「詩のワークショップ」をやろうと思っています。何回が試しにやってみて、夏休みにみなさんに参加してもらえるものを企画できると良いかなぁと思っています。お楽しみに。