物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

雪の轍(わだち)

友人にすすめられたトルコ映画『雪の轍』を観てきました。

2014年、カンヌ映画祭パルム・ドールをとった作品だそうです。監督は55歳(今は56歳なのかな)のヌリ・ビルゲ・ジェイラン。文学系のかたらしく、チェーホフの短編「妻」他2作を下敷きにしているようです。

そのせいか、登場人物もよく練られて世界もしっかり描かれており、3時間16分という長編でしたが、少しも長いと感じませんでした。口当たりもソフトでゆったり楽しめました。最近、斬新だったり荒削りな映画を多く観ていたので、久々に映画らしい映画でした。安心しておすすめできます(笑。

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とは言っても、一筋縄ではいかない映画ではありますね。最初にびっくりしたのは、イスラム教の国でこんなに女性が自分の意見をしっかり言うのか、ということ。裕福な特権階級だから、ということもあるのでしょうけどね。そのへんが、日本人にはひとつの目くらましになってしまう危険性があるかもしれません。

たぶん、そんなに前衛的なことを言おうとしているわけではないのですよ。人間がいつまでも乗り越えられない古い縛りについて、文学的な立場で…つまりできるだけ広い視野でただただ誠実にとらえようとがんばっているんです。でも、その姿勢に感動しました。こういうことは、今はなかなかできなくなっていますからね。

主人公は、偽善的で鼻持ちならない初老の男。プロフィールも、元俳優で資産家という。この人の言葉は常に核心からズレていて、色々な人と様々な議論やら口喧嘩に近いところまでいきますが、決定的には戦わない。特に、夫婦の間では議論は噛み合いません。

「自分の人生を生きていない」と言われる通り、モラトリアム人間なのです。妻も、実は同じような人物ですね。似た者夫婦です。

この雰囲気は、まるで日本文学のよう…と思ってしまいました。先日の漱石のイベントでのフランスのエマニュエル・ロズラン先生の会話の勾配のお話を思い出しました。勾配というのは、漱石『明暗』の中で「だんだん勾配の急になって来た会話」という表現からきているのですが、ほとんどの場面の会話が時間とともに関係悪化するというもので、特に、夫婦間では問題の核心に触れようとしないですれ違っていく。

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http://machienpro13.hatenablog.com/entry/2015/05/17/231355

この映画でも、まさにそんな感じの会話が続くなぁ…と。

先日観た、ろうあの人たちの手話だけで構成される映画『ザ・トライブ』とは対照的です。あの映画では言葉がないのに、出てくる人々の伝えたい思いに溢れていて、それは観客にも伝わってきました。それに対してこちらは、抽象的な言葉が飛び交って議論が続くのだけれど、結局、言いたいことは何も言っていないように感じられる。伝える気がないような。まるで、自分に向けてしゃべっているようなのです。

でもそれが、より現実的なんだと思います。ここで表現されているのは他人との議論ではなくて、個人的な思索なのかもしれません。思索は必要ですね。

そんな、ちょっと息詰まる物語ですが、世界遺産カッパドキアの景色が素晴らしく、世界の広がりすら感じました。ほんのり明るいチェーホフ的読後感もありました。