読書会「カイロ団長」「トカトントン」 と 編集会議
今日の午前中は、宮澤賢治「カイロ団長」、午後は太宰治「トカトントン」の読書会をしました。今回、この二冊の共通点を考えてみると、労働ということですかね~。
宮澤賢治「カイロ団長」は三十匹のあまがえるたちがとのさまがえるにこき使われる話です。擬音語、擬態語や、賢治らしい独特な表現、両者の視点を実感できるところが面白い作品。だから、悲惨な場面にもユーモアがあります。
ただ、問題解決のために、あまがえるもとのさまがえるも、どちらもあまり考えることをしていないのではないか、と。使われるほうも、使うほうも、日本人的なのかも…という話になりました。なんだか、そう考えると、少し不安になってきます。
明日、7月18日(土)から、町田市民文学館にて「宮沢賢治 イーハトーヴの鳥たち」が開催されるようです。ちょうどよいタイミングで読書会ができて良かったです。
太宰治「トカトントン」は、一生懸命やっていたのにトカトントンという金槌の音がして、途端にやる気がなくなってしまうという青年の話。こういうことって、みんな経験があるよねということでしたので、トカトントンという音がするのはどういうときだろうと考えてみました。
昔、好きな彼氏に夢中になったことがあったけれど、急に冷めてしまったことがあったと話し始めた人に、「待った、それは本気じゃないっ」というつっこみ。う~ん、確かにそうですね。ということは…トカトントンという音は、本当は真剣にやっていない場合に聞こえてくる音なのではないかと。
とすると、最後、この悩みに答える作家の返信の意味が自ずと理解できます。
〈拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂と
をゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。〉
つまり、本気でやれよ、と。
読書会の後の編集会議の様子です。みなさん、真面目にやっていますね。私は疲れてぐったりです。写真だけ撮りました。