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物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

母と息子

物語・小説

 何年も前に公民館のサポート団体でご一緒したかたにばったり会い、誘われるままに遊びに行ったところ、大変な御馳走をされてしまいました。感謝。
そのかたは80代ですが、常識に縛られない自由なかたです。少女の面影をそのまま残していて、お話を聞いていると子ども時代の様子がありありと想像できるようでした。もうひとつ思ったのは、とても健康だということ。体の隅々まで血が巡っているのが、近くにいると伝わってくるものなのですね。
そのかたが、この年になっても息子が可愛くてたまらない、大好きだと繰り返しおっしゃって、その気持ちは何なのだろうなと考えてしまいました。母親の子どもを愛する気持ちというのは、ときに息苦しくなるほどですが、それはずっと変わらないものなのでしょうか…。

 

最近、夏に亡くなった鶴見俊輔さんの本をあれこれ読んでいるのですが、1990年代の発言に、おふくろは「いまもわたしのうしろにいる」と書いてあって、びっくりしました。お母さんが亡くなったのは50年代でしたかね。

母と息子というのは、どうも深みにはまってしまうというところがありますね。単純にマザコンという言葉では把握できないように思います。

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遅々として進まないプルースト失われた時を求めて』も、ゆっくり楽しく読んでいます。図書館でオオミズアオの羽の色の全集を借りたのですが、結局、購入した光文社文庫高遠弘美訳)を読むことにしました。
主人公が母親からおやすみのキスをどうしてももらおうと画策する場面は、あまりに可愛らしくて笑ってしまいました。
お客が来たことでおやすみのキスをしないまま2階にやられた主人公。お世話をしてくれているフランソワーズに母への手紙を託します。でも、彼女が断るのではないかとひどく恐れています。

フランソワーズはしていいことといけないことに関して、絶対的な法典を有していて、その内容たるやじつに豊富かつ繊細微妙にして妥協を知らないものでありながら、両者の区別は不分明で、しかもたいして意味はなかった。

フランソワーズも、面白すぎ。

まるで紙を確かめ、書体を見れば、手紙の内容がわかるか、その法典のどの条項を参照したらよいか知ることができるかのように、五分もの間、子細に封筒を眺めてから、観念したように出て行ったが、それはまるでこう言っているかに思われた。「こんな子どもを持った親御さんは不幸というものだわ」

一般常識的な視点からはこう思えるのでしょうかね。そして、主人公はこう思います。

いまや私は母と離れてはいなかった。障壁は崩れ落ち、うっとりするような糸が私たちを結びつけていた。それだけではない。たぶんお母さんは来てくれるのだ!

いやあ……。