物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

都市型ファシズム?

昨日、相模原であった事件がショックです。自分の問題を、上から目線で関係ない人や弱者のせいにするというのは…?そこまで自分に都合よく、自分をもごまかして考えられるものなのか…?

先日の風邪の回復期、「『絶歌』論―元少年Aの心理的死と再生」 (サイコ・クリティーク)高岡健批評社)という本をパラパラ読んでいて、結局全部読んでしいました。『絶歌』に関心があるというより、過度に否定する力というのが理解できずに不気味なんですよね。だから、この本の前書きの次のような箇所に興味を持ちました。

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私とは異なるどのような言論であっても、「自分の頭」で考えたものであれば、それらに耳を傾ける姿勢を、私は持っているつもりです。だが「自分の頭」で考えないで被害者擁護を装っているだけの、都市型ファシズムにも似た言論封殺の風潮を許容する姿勢を、これまでも今も私は持っていません。

都市型ファシズムって何だろう、と思ったらこんな注がありました。

さまざまな定義があるが、農村の絶対的貧困を基盤にしたファシズムとは異なり、都市住民の相対的貧困に基づく不満を、別の弱者を攻撃することによって視えなくする動きを指す。ヘイト・スピーチも、その一例である。

なるほど、そうなんだ。ル・グィンのSF短編小説「オメラスから歩み去る人々」(『風の十二方位』収録)で描かれていることかなと思いました。

私も、自分に子どもがいる身としてはどうしても被害者家族の立場で恐怖と怒りを感じますが、上から目線の批判の力にも同じように、どこに逆恨みがいくかわからない怖さを感じます。この本に「他人に反省や謝罪を求める権利や姿勢は、被害者とその遺族以外、誰も持っていないし、そんな立派な人間などどこにもいない」とあって、そうだよね、と少しホッとしました。

『絶歌』の引用から続くこんな個所もあります。

≪贖罪とは何なのか、罪を背負って生きる意味は何なのか、迷いを抱え何ひとつ明確な答えも出せず、ただYさんや弁護士に言われるまま被害者に手紙を書いて、お前はいったい誰に向かって償いをしているんだ?≫

≪一生、そうやって安全な籠の中で、自分の頭で何も判断せずに済む状況で、自分の意志で何かを選択することを避け続けて生きるのか?≫

 こういうAの苦悩を、言い訳に過ぎないと断じるのは誤りです。(略)

 でも、無関係であるがゆえに物事を深く考えない他者は、往々にして「籠の中」で一小を終えるようAのような立場の人間に対し、要求しがちです。それどころか、それが「更生」なのだと、強弁さえするのです。しかし、それは「更生」ではなく、厳密にいうなら社会内「軟禁」に過ぎません。興味深かったのは、更生について書かれた箇所です。人の資質は、反省すれば変わるような、簡単なものではないのです。本人の力が及ばない幼少期に、刷り込まれて成立するものが資質だからです。それでも、その資質の由来と仕組みを自分でつかむことができたなら、資質じたいはかわらなくとも、行動の方向を変容させることが出来ます。更生とは、そういうことをいうのです。

確かに、その人の性質というのは簡単に変えられないと言いますよね。

更生というレベルの話でなくとも、自分の資質の中に刷り込まれた欠点というのは、そうやって由来と仕組みを理解することができたら変えていけるものなのかもしれませんね。

本当はこの本に紹介されていた『滝山コミューン1974』を紹介しようと思ったのですが、前置きが長くなってしまいました。また次回に。