物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

島田雅彦連続文学対談「日本の物語を語り合う~文学はなぜ必要か~」

昨日は町田市文学館開館10周年の記念企画として、島田雅彦氏×古事記の研究をしている三浦佑之氏の対談を聞きに行きました。連続対談の一回目です。「古事記」のマヨワの物語とハムレットの共通性から、シャーマンと作家、DNAやゲノムの話にまでなりました。

ピッピのメンバも何人か一緒でしたので、今回は、NさんとWさんに聞いてみた感想を紹介します。

Nさん:

すごく面白かった。

私が一番印象的だったのは、もうしょっぱな、導入での話ですが・・・言葉は自然界にないものを作れてしまうってこと。そうなんだぁって。例えば「あの世」とか。

言葉は分ける機能があるということ。漢字も、もともとは絵なのでそれ自体に意味がありますよね。この世とあの世を分ける。「分かる=解る」ってことでもある~~~と。

これって、言葉を理解する・・・いろいろ理解する原点だよなぁ・・・と自分自身の反省から始まりました。

自分勝手な思いや考えを入れて理解しようとしてないか? 誰かが言ってる常識を混同して理解しようとしていないか? って、分けて考えなくちゃいけないってことだなと思ったんですよ。

Wさん:

そうですね。私の感想もNさんと重なります。人類が言葉を生み出したことにより、言葉によって分ける機能を獲得し、分ける‐わかる‐世界を認識する、ということができるようになった話。

エスキモーは「雪」について、何十種類もの言葉を持っているらしいんです。わたしたちも読書会なども、できるだけ分けて考えようとしてきたということとも繋がるなぁ…と思いました。

あと、もうひとつ。神話は「垂直」と「水平」なタイプの話に分類できるんですって。「垂直」…は上から降りてくるような、天‐地‐地下の世界観で、元々は北方的、弥生文化的、渡来的な考え方のようなんです。

これに対して、「水平」…は、海の彼方に何かを見るような水平な世界観。元々は環太平洋の国に多い、南方系というか、いわゆる縄文系。日本は、これら両方のタイプの神話がごちゃまぜに存在しているのだとか。

私は水平な世界観に惹かれるのですが、そこが根本にあるのかもしれないなって。自分の住んでいるところとは全く離れているのに、沖縄の世界観や宗教観に惹かれるのもそういうことかもしれないって思いました。