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物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

Y字路 反転

 先日の横尾忠則展ですが、脳内のどこかを刺激されてしまったらしくどうにも落ち着かないので、翌日、ひとりでもう一度行ってみたのです。

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 初日に行ったときに気になったのはこのあたりの一連の作品です。先日のエリック・カールの読書会で美術系に切り替わるスイッチが入っていたせいか、ものすごく心地よいんです。私は普段からいくつものイメージを同時に重ねる癖があるので、安心するというかリラックスするのですよね。
 そうそう、先日写真に撮った作品群が私には印象深かったところのはずなんですが…もう一度見て、刺激されているところとは一致しないということがわかりました。うーん、なんだろう。
 この日、展覧会についての多摩美の先生のお話しがあるということだったので、この講演会にも顔を出してみたんです。なんと、横尾忠則さんも一緒に聞かれていました。話しにくいでしょうね(笑。
 この講義はオリジナルと模倣というような本質的な話でしたが、先日来私は美術系に頭が切り替わってしまっているので、スクリーンに映される「性風景」とか「責場」とかいう作品に見入ってしまうと言葉が頭に入ってきません。
 最後は1941年(横尾忠則さん5歳)の模写作品「武蔵と小次郎」が映し出され、その大人びたタッチに目が釘づけになり、結論を聞き逃しました。横尾さんは読書と模写を似た種類の行為としてエッセイに書かれていましたが、まさにそうだと思いました。
 
 結局、何がひっかかっているのかよくわからないまま、カタログやポストカードが売られているカウンターであれこれ眺めているうちに、ふと「東京Y字路」という写真集を手にとりました。そうそう、Y字路の作品はいくつか展示されてありましたっけ。横尾さんのY字路の油絵は、だいぶ前にどこかの展覧会でも見たことがあります。
 
 あ、そうか。それであっさり謎が解けました。Y字路に刺激されたのです。
 
 実は、今週の土曜日にあるブックカフェで、初めて私の作品の読書会をすることになっているんです。どの作品をとり上げようかと相談されて、選んだ作品がありました。
 読み返してみると、分岐点の作品だと思いました。その小編を自分の中でとらえている印象は、なぜか二十歳の頃に描いたアクリル画と重なりました。たぶん、そのアクリル画が私にとって分岐点にあたるY字路の絵のだったからでしょう。今はないその絵のことを、このところ思い出していたのです。
 今はない絵なので説明しづらいのですけどね…。描いたのは、神保町を歩いている夢を見たことがきっかけでした。突然景色が反転し、世界がひっくり返ってY字路の方向に落ちそうになり、必死で道路にしがみついているのです。なんだか異界に足を踏み入れたような奇妙な感触でした。
 その絵は、夢の景色を簡単に描いたスケッチに近いもの。不思議な絵だとみんなにびっくりされました。学生時代のグループ展の看板に使われもしたのです。ただ、当時の私にとってはそういう反転が日常だったので、最初は普通の風景画としかとらえられませんでした。だから、欲しいと言った誰かにあげてしまいました。
 ところが、その感覚が次第に薄れていってみると、自分でもその不思議さを意識しました。それをきちんとした作品にして残しておこうという意識も働き、色々な画法で描いてみたのです。でも、うまく描けない。その感覚を忘れちゃっているのでしょうね。なんとかその雰囲気が残っている絵を何枚か描きましたが、やっぱり誰かが欲しいと言って持って行ってしまいました。結局、一枚も残りませんでした。
 その後も、何度か試みましたが、もう全然描けない。そのときの焦りというのが今も強く残っているのです。
 
 もしかしたら、このタイプの小説も、書けなくなってしまうのではないかと…。うーん、まずい、まずい…。
 
 そんなこと考えながら美術館をあとにして、家に帰って来て、玄関に飾ってある自分の絵を素通りしました。それは20代の前半に描いた窓のある風景です。上手く描けてはいないのですが、なんとなく分岐点にある絵のような気がして、そこにずっと置いてあるものです。
 当たり前の風景として絵を見もせず、通り抜けながらこう思いました。そうだ、学生のときにY字路の絵を描いたけれど、卒業してからはこういう窓の向こうに景色が広がる絵を描くようになったんだよなぁと(その後、間もなく絵が描けなくなっていくのですが…)。
 で、戻って自分の絵を見ました。あれ、もしかしたら、これはY字路?

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 よく見たら、Y字路の分岐点にある家の窓から、Y字路に分かれる前の一本道を振り返って見ている絵なんじゃないでしょうか。どっきりしました。
 絵を描くときには言葉を意識しないでやっているんで、こういうことが自覚できていないのですよね。
 
 違うかもしれませんが、小説を書くことが憑依することだとしたら、絵を描くことの反転が小説を書く行為なのかもしれない…と思いました。