物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

暑中お見舞い申し上げます。

先日は非言語コミュニケーションのワークショップをしました。メンバーの何人かの方から希望があったからなのですが、実は、私自身が最近の言語コミュニケーションに疲れていたのだなぁと気がつきました。

本(物語)を読んでも何の益もないというような言説をときどき目にしますが、そのたびに、その結果どういう未来に行きつくのだろうかという空恐ろしいような不安を感じます。物語ではなく実用的な言葉だけ選んでいったら、世界はどれくらい小さくなるのだろうと。

物語というのは統計やら平均ではなく、ある特殊な個の体験を誰にも分る言葉でできる限り解明して語ったものだと思います。その言葉があるからこそ、世界の周縁部は柔軟性をもって広がっていくのではないでしょうか。あるいは、それぞれの人が世界を支える役割を担っているのだと実感できるのかもしれません。

だから、物語がなかったらどうなるのだろう…と。

先日、小田急線に乗っていたら、津久井やまゆり園のことを踏まえた神奈川県のPR影像が流れているのを見ました。「ともに生きる」という書道家金澤翔子さんの文字。少しホッとしました。そうですね、亡くなった19人の方々にはそれぞれの物語があったのです。

同じ日に、大学時代、美術研究会で一緒だった友人から暑中見舞いのハガキが届きました。ブログを読んでいるという言葉に、彼女の絵が添えられていました。なんてきれいな、力強い赤だろうと思いました。やはり絵はいいなあと。

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こういうことって続くもので、娘にも自作の焼き物をもらいました。なんて深い青なんでしょう。重さ、冷たい質感。文房具を入れるのに使うよう言われたのですが、何も入れずに眺めています。

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ここには、言葉以上の情報が詰まっています。だから、元気づけられるのですよね。

いや、もしかしたら、すでに言葉は数式にとってかわられようとしているのか? というか、等式とそれほど変わらないものになっている? 色のない単色の世界が広がっているイメージ…

なんてことを考えるのも、この数週間、読みかけの本以外新しい本に手を出さなかったからなのでしょう。久しぶりに短編小説を読み始めたら、その舞台となる海辺の潮の匂いと鮮やかな色彩に刺激を受けて、目が覚めました。

わかっていたはずなのに、物語は言葉ではないとあらためて実感。言葉ではなく、体験なのだと。

暑い日が続きますが、皆さま健やかにお過ごしください。