物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

縄文と私小説

今月に新しい読書案内「ピッピのくつした」を発行する予定なので、今、編集作業に大わらわです。

なぜか縄文特集ということで近所の遺跡から始まって、町田市博物館や相模原市博物館、ちょうど上野トーハクでやっていた縄文展に行ったり、「縄文にハマる人々」という映画も観ました。先日は山梨縄文ツアーなるものも企画してメンバーで温泉に一泊してきました。

近所の遺跡を紹介するくらいのつもりが、どこからどうハマってしまったのか不明。今までの特集で、メンバーがこんなに夢中になったことはなかったのです。どうしたことでしょう?

ひとつには、世の中が密かにかなりの縄文ブームなのでしょう。

でも、意外に読書会ともつながっていて、石牟礼道子さんの語りが縄文的なのではないかという意見もありました。石牟礼さんの世界をプラスの方向に豊かに語っていく言葉は、平面の絵や文字ではなく土器土偶の立体表現をする縄文的な語りだと思うと納得できるような気がしてきます。

先日のリービ英雄さんの短編に出てきた象の数の話も、言われて初めて日本人にはそういうところがあるのかなと気づきました。

象の数というのは、若い頃のリービさんが脚本の英訳を頼まれて、出てくるぞうが単数なのか複数なのかと作者である安部公房に聞いたという話です。安部氏は「わからない」と答える。日本人はそういうことはどうでもいいからリービ君が勝手に決めなさいというようなことを言われる。でも、長く日本に暮らしてきて、その数なんてどうでもいいんだという感覚を自身も持ったと。

物事をどこまでも客観的に均一に見るのではなくて、大事なところにフォーカスして周辺がぼやけているという見方なんだと思うのですけどね。もしかしたら、小説で言えば一人称と三人称の違いなのかもしれません。

私自身も、かつては私小説というのは受け入れがたかったような気がします。若い頃は、単純に劣っているとかカッコ悪いと思えていたのかもしれません。実際、若い頃はできるだけドライな客観的視点で小説を書きたいと肩ひじ張っていたような。これ、全然うまくいきませんでした。

でも、読書会で続けて私小説を読んできて、あ、そういう考え方だったのか、気づくところが多々ありました。働いていた変なバイアスを取り除くと、以前想像していたこととはだいぶ違って見えてきました。

縄文土器土偶を見る目にも同じようにバイアスがあったことに気づきました。純粋な目で見たら本当に素晴らしい。というかある方面に向いた知恵がある。

そうしてだんだん見えてくる縄文的な思考というのが、私小説と同じく、自分の中にも存在していることが少しずつ見えてきました。たぶん元々あるんですね。あるなら、うまく使うのがいいですね。

世の中的には、それをどんどん捨てようとしていく方向に流れているのかもしれませんが、個人的には簡単に捨てないほうがいいのかもしれない。捨てて上手くいくなら捨てればいいのだと思いますが、捨てないで上手く使う道もあるのでは。

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