物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

推し、燃ゆ 読書会

今月の読書会の宣伝を忘れてました。
報告だけになり、すみません💦

昨日の読書会、芥川賞をとったばかりの宇佐見りんさん『推し、燃ゆ』をとりあげました。息子と同じくらいの年齢の作家さんなので自然親しみを感じてしまいますが、前日に再読し、すごい才能だなぁとため息。というか再読なのにワクワクしながら読みました。

小説に、推しは背骨、とありました。それくらい女子高生の主人公が生きていく支えになっている。それが現代の病みたいな見方もあるかもしれませんが…そうなのか?

読書会では、つい参加者の方々の推し体験などもお聞きし、推しという言葉はなくともそれぞれの年代に特徴的な推しってあったのだと確認しました。
考えてみたら自分にも当然経験があり、最近は父が亡くなった後のあれこれでかなりストレスフルだったので、無意識によく推しの曲をスマホで聴いていました😅
…それはそれ。

大人になってひとりで立つことはもちろん必要だけれど、支えを見つけることは、思春期や青年期、それに限らず人生の難所を上手に突破するコツでもあるのかなと。

その難所にいるしんどさというのは私も何度か経験していますが、ひとつの辛さは、コミュニケーション不全かもしれないなぁ…。鬱の時なんて、客観的に考えたら何の問題もないのに、自分にとってだけ、人との普通のやりとりがしんどいのですよね。まったく楽しいという感情を忘れてしまってますからね。

そう考えると、小説の中で印象的だったこと。主人公あかりが、親や教師やバイト先の大人たちとはうまくコミュニケーションできていないし、学校のクラスという大集団では浮いていても、友だちはいるしSNSではむしろ巧みにコミュニケーションできているということです。そこには同一人物とは思えないほどの齟齬があるのですが、たぶん、そこがすごくリアルなのですよね。

これ、何だろうと考えていて、最近読んだ東田直樹さんの『自閉症のぼくが跳びはねる理由』というエッセイを思い出しました。身体のコントロールが利かない、人の話をきちんと聞くことかできないし、思ったことを話せない。思ったことと逆のことを言ってしまうこともあると書かれていて、ちょっと興味を持ちました。
そういうことって、自閉症鬱病じゃなくとも、誰にも多少はあるのではないかと思うのです。人によって見ているところは違うし、関心を持つ場所も違うし、生きている次元が違うし、当然コミュニケーション法も違ってきます。

個人的に、もう少し考えてみたいテーマです。

忘れないうちに。来月の読書会は、5月28日(金)アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』です。13時半から、町田市民フォーラム3階多目的室です。午前中、お茶会もあります。…という今のところの予定です。

緊急事態宣言が出るみたいですので気をつけないと😔今日は1人で、外でサンドイッチを食べました。
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