物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

鳥の仏教

お天気も良く、色々なイベントが多い時期なのか、地元の時代祭り(?)で流鏑馬をやるらしく、街中に馬に乗ったりした人々が歩いているのを見てびっくりしました。

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文学館でもお祭りをやっており、オープニングでは子どもたちの和太鼓を演奏していました。後ろの水色の看板には赤瀬川原平尾辻克彦展とありますが、今日は有難いことに無料の日でした。

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華氏451」を思わせる作品もありましたが、現在鑑賞するほうが迫力があるなぁと冷や汗をかきました。漫画「ガロ」とか、トマソンでしたっけね、純粋階段などの展示やスライドもゆっくり楽しませてもらいましたよ。カメラの細密画も面白かったな。

先日の谷中安規展も、版画とは言っても文学的要素があることを感じましたが、今日の展覧会を見て、美術と文学ってそんなに区別するべきものではないのかもしれないなぁと思いました。(谷中展は面白かったので、もう一度ゆっくり観に行きたいと思っています。)

裏庭のスペースでは古本市をやっていましたので、早速のぞいてみました。以前公民館だよりの編集を一緒にやっていた方やら、知人もちらほら。何か一冊買おうとぶらぶらした揚げ句、若いご夫婦のお店でなんとなく手にとった『鳥の仏教』という文庫を買いました。

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17世紀くらいだったかな、チベット語で易しく書かれた、仏教を鳥の世界で説く教典があるのだけれど、新しいものだし、鳥の世界で仏教を説く物語なので、あまり重要に扱われてこなかった。でも、近年、フランスやイギリスで採りあげられているらしいんです。この本は、その訳書です。

読んでいてなんとなく、少し前に読書会で扱ったドラッカーや先日ブログに書いたアドラー心理学を思い出してしいました。近年、こういうものが、妙に気になるのですよね。

著者の解説的な文章に「アニミズム」について書かれた箇所があり、読んでなるほどと思いました。

アニミズム、「この言葉はほとんど万能で、相手の社会的信用を失わせようと思ったら、その相手にむかって『あなたの考えはアニミズム的だ』と言いさえすればよい」と。これは「あなたはまともな大人の思考法をしていない」というのと同じだ。つまり、幼く未熟だと言って切り捨ててしまえば良いということです。

まあ、一般的に、アニミズム的な思考法を未熟に感じて、そういったものを警戒してしまうものかもしれません。常識的にはそうなのだけれど、著者の「アニミズムをひとつの思考法として、理論として、再評価すべき時代がきているように、わたしには感じられる」という言葉、別に新しい考えではなく納得できるのです。

なぜかというと、たいして社会的な議論に関わっていない私ですら、こういったことを考える経験を何度かしているせいです。たとえば、人の気持ちを冷静に分析して言葉で説明しているのに、「それは感情的だ」と興奮した相手に却下されるとか。それは逆だろうと思うのですが、その説明をまた聞くことができない人を目の当たりにしなければならなかったり。

まともな理屈が理解されず、アニミズム的思考から出た結論が支持される場面を何度も目にしていると、大丈夫なのかと不安になってしまいます。もはや大人の思考法は通用していないのではないかと…。そんなことから、私たちのサークルの読書会でもドラッカーをとり上げ、先日はアドラー心理学についてブログに書いたりしてきたのかなと思い当たりました。

つまり、皆が同じ土俵で話をするためのチューニングが必要なのではないかと。

著者は言います。

「動物たちの行動を注意深く観察していた古代の人々は、動物たちの中に人間とは異なっているが、自然の中で間違いない働きを見せる高度な『理性』の働きを見いだしてきた。そういう古代人にとって、動物には理性がないというアリストテレスの見解などは、無知にもとづく偏見としか思えなかった。動物には人間と同じように心があり、その心にはしばしば人間を凌駕する特性が宿っている」

自然を観察していれば日々様々な発見がありますので、これも納得ができます。でも、もはや、自然を観察することが一般的な体験でないことは確かですよね。それでもきちんと理論を積み上げていければまだいいのですが、いいかげんな積み方をしていると、誤った結論しか出ません。そういう怖さを年々強く感じます。

「地球上にあって、人類と鳥類は『ひとつの心』を共有しあっている。そして変わっていかなければならないのは進化の過程でみごとな完成をとげた鳥たちではなく、心に大きな自由領域を与えられながら、いまだに未完成な、いやこれからも未完成なままのわたしたち人間のほうなのだ」

チベットで書かれたという教典「鳥のダルマのすばらしい花環」では、カッコーに姿を変えた観音菩薩が鳥たちに教えを説き、考えさせる内容になっています。その鳥のカラフルな姿の挿し絵と、意味のある鳴き声が合致してとて、読んでいてとても楽しい。

それから、特に、最初の言葉が印象的でした。

「ブッダはこう言われた。

 神々と龍と精霊と

 魔物と人間の言葉を使い

 理解できるあらゆる音を用い

 言葉という言葉を駆使して

 わたしはダルマを説いた。」