「パン屋再襲撃」再読
このところ、ワークショップをやっているメンバーと話し合うときにいつも“思春期”を越えているかいないかということが問題になる。でも、40代も終わりに近づいて思春期を越えていないなんてことがあるのだろうか。よくわからない。
高齢化が進む現代はゆっくり大人になるから、思春期を越えるにも昔よりも余計に年月がかかる、たとえば30歳くらいだという話は聞いたことがある。でも、もうすぐ50じゃね…。
たぶん私は普通の思春期は経験したと思うのだ。周囲とそれほど派手に対立したりはしなかったけれど、内面では人並みに葛藤はあったのじゃないかと思う。中学生になって、今まで手にとらなかったような物語以外の幅広い分野の本を手にとって、わからないなりに読んでみたりもした。
世界が急に狭苦しく感じられて広いところに飛び出したいと思いつつ、生真面目に自分の行動の正しさを追求していたのではないかな。受験の枠から外れたくなったり、家を出たくなったり、海外に行きたくなったり、ひと通りやってみて、自分の見方がおさまるべきところにおさまった気はする。
…うーん、実はずっと放浪している感じもしないではないけれどもね。でも、少なくとも思春期はとうに終わっているというのは確か。
そんなことを気にかけつつ、今日は早朝から仕事したので、残りは明日に回すことにして、午後は渋谷に映画を見に行くことに決めた。肉体労働なので疲れちゃったけれど、まあ、映画ならいいやと思ったのだ。
渋谷までの電車の中、村上春樹の短編「パン屋再襲撃」を読んだ。
3月末の図書館子どもまつりで、中学生向け読書会をやろと思っていて、短くて読書会に向いていそうな作品を探しているのだが、すっかり忘れてしまっているものも多く、この作品もなんだか印象が違っていて不思議な気がした。
若い頃にお金がなくて(働きたくないというはっきりした意志のため)、空腹で、相棒と一緒にパン屋を襲撃しようとして失敗したことがある主人公。何年も後、同じくらいの空腹時に、結婚したばかりの妻にその話をしてしまう。妻はもう一度やるべきだと言う。
ここまで読んだ時点で、読書会には不向きかなと思った。なんでかわからないが、今は虚構と現実の差がわかりにくいらしく、モラル的に良くないという意見が出てしまうのだ。絵本「3びきのくま」ですら不法侵入は良くない、と言われるくらいだから…。
村上春樹の「ノルウェイの森」の読書会をしたときにも、春樹の小説はエロくてグロいと言われてびっくりした。私たちの世代にとっては、どっちかというと穏やかな小説という印象があったから。
でもね、これは物語であって、現実ではできないことを物語で昇華するというのはあると思うのですよ。そんなこと言ったら、昔話なんてみんなものすごいですよ。たとえば「かちかち山」なんて婆汁食べちゃったりするんだから。
それでもって「パン屋再襲撃」だけど、読んでいたらだんだん、30近くなった主人公が思春期を越えようとしている物語に思えてきました。いや、主人公ではなくて、妻がなんとか夫に思春期を越えさせようとしている。
小説だからちょっと派手な事件になっているけれど、実際には大したことないちょっとしたことで十分な気がする。たとえば夫婦でアングラ芝居を観に行っちゃうとか、意味するのはそういうことじゃないかな、と。
まあ、なんにしても、女性としては、この妻が夫にイライラしているのはすごくよくわかる。思春期を越えていないような夫だったら、すごく嫌だろうと思う。そこにはどうにもならない溝があるんじゃないかと。
ふと思い出したのが、大昔、中学2年か3年だったと思うけれど、高校受験の作文対策のために授業で続けて作文を書いたことがあった。200字くらいの短いものなので、起承転結もはっきりさせられないような文章だったけれど、書き出しの工夫やら、転の意外性に凝ったりして、結構夢中になった。
書いた後、隣の席の子と交換して添削をすることになっていて、困ったのは、隣の子がいつも時系列で何を言いたいのかさっぱりわからない文章だったこと。でも、隣の子も困っていたらしい。「なんか、悪人みたい」と言われた。「え?」
意味がぜんぜんわからなかったけれども、とにかく、思春期を越えた人とそうでない人の間には深い溝があるんだなと思い知らされた。たぶん、隣の子と私はぜんぜん違うことを考えているんだろうなぁと思った。
というわけで、「パン屋再襲撃」は、夫婦というより、そういう意識のギャップのある2人の溝を描いているのかもしれないと思った。
それはいいけれど、空腹の描写を読んでいると空腹に耐えられなくなり、映画館のカフェで日替わりランチを食べた。これにデザートとコーヒーもついていました。
見た映画は「わたちはロランス」です。
蝶のイメージが面白かった。谷中安規を思い出しました。