物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

喘息発作2 チャタレー夫人の恋人

土曜日の夜の喘息発作から、その後、急に体調が良くなるはずもなく、今日も予定をとりやめて午前中は寝ていました。ただ、明日以降の予定もとりやめにするわけにはいかないので、試しに、昼の日差しの暖かい時間に外出しました。

家を出て、何度も派手に咳込んで立ち止まり、これは無理かと諦めかけたのですが、歩調が定まると意外に安定して、体も循環し始める感じも心地よい。別に足腰が弱っているわけじゃないですからね。マスクをして出かけましたが、ときどきはずして外の清々しい空気を吸いました。生き返るというのは、このことですね。

ただ、咳込むとしばらく立ち止まざるを得ず、体勢立て直しに時間を要します。銀行と、少しの買い物をして、やむなくカフェでひと休み。温かい紅茶を飲みながら、D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』の最後の部分を読みました。

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今年の9月に発刊された、木村政則訳、光文社古典新訳文庫です。友人にもらって読み進んだのですが、あれこれ忙しくて忘れていました。まあ、肝心のチャタレー夫人の恋人の森番メラーズにあまり魅力を感じなかったのも原因なのですが…。

その本がたまたま手元にあったので、病院から帰宅してから寝ながら続きを読み始めたのです。

訳者の人も解説で書いているのですが、私も訳者と同世代なので、どうしてもこの本の表現が〈わいせつ〉だと指摘されて裁判になったという事柄が子ども時代の記憶に刻まれています。それを抜きにして読めなくて困りました。こういう記憶って、本当に強固なものなんだなとあらためて思いました。

でも、実際には、訳者の人も言ってますが「これが、わいせつ?」と首を傾げるばかり。確かに恋人との性交の話は細部にわたって書かれていますが、むしろそれはコニー(チャタレー夫人)の気持ちを抽象的に説明するものだったりして、行為についての描写は決して多いとは言えません。だって、わいせつと言ったら、もっと他にあるんじゃないかと思いますよ。

いったい何かひっかかったのでしょう?

最初に読んだとき森番メラーズに魅力を感じなかったこととも関連するのですが、この小説で特徴的だと思ったのは、女性の側からの視点で性をとらえようとしているところです。だから、メラーズに比べるとコニーは純粋で生き生きして魅力的です。

この小説、簡単に言うと、コニーが女性として性の主体となるために恐れることなく学んでいく物語なのです。若い女性として、前向きで健康的な好奇心に誘われ、一方、公平性を意識しながらまっとうに思考もしていきます。

つまり、2人の行為と気持ちが丁寧に描写されているだけのことですが、もしかすると、女性の視点というのが、当時はタブー(斬新)だったのかな? と勘ぐってしまいました。

コニーが森番との純粋な恋を古くからの友人ダンカンに相談するとこんなふうに言われます。でも、日本にそんなタブーはあったのでしょうかね。

「性を汚すのはいい。むしろ冒瀆すればするほど喜ばれる。しかし、自分の性を神聖化して汚すまいとすれば叩きのめされます。なぜなら、世の中には馬鹿げたタブーがまだ残っているからです。つまり、生命の中心にある自然なものとして性を謳歌してはいけません。」

うーん、よくわからない。

そういう意味でも、現代の大人の女性の性教育としての一冊とも言えるのかもしれません。

背景としては、農場から炭坑に激変していく風景、階級間の摩擦、まだおおっぴらに肯定されている差別感情、当時のイギリスの社会を、労働者階級のロレンスがかなり執拗に描いています。それにからめると、性についても恋愛の形が変わっていく時代だったのだろうなぁと考えさせられ、読み応えがありました。