物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

クシュラの奇跡

昨日が、投稿小説の郵送必着の締め切り。…というわけで、3日くらい前に投函したのですが、PCの調子が悪く、ブログを更新できませんでした。あ、でも、もう大丈夫のようです。

今回は、小説を書いてのが一週間弱だったので、推敲するにも距離がとれなくて難儀しました。仕方なく、気分転換にできるだけ違う世界の本を読もうと手にとったのが『クシュラの奇跡 140冊の絵本との日々』(ドロシー・バトラー著/百々佑利子訳/のら書店)です。

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もともとは著者(クシュラの母方のおばあちゃん)が1975年にニュージーランド、オークランド大学で書いた研究論文のようです。日本では84年に出されて、たぶん大きな反響があったのでしょうね。この改訂版は2006年が初版。長く読み継がれている本なのでしょう。私は本のタイトルは知っていましたが、実は手にとったことがありませんでした。

様々な障害を抱えたクシュラが、3歳までの読み聞かせの中でどのように発達したかということが真面目に書かれた本です。発育するにつれて認識より重い障害であり、原因がわからなかった障害が遺伝的なものであることもわかっていくのですが、そうだとしたら、絵本の読み聞かせによるこの発達の意味は? と考えさせられます。

面白かったのは、同年齢の優秀な女の子(娘)への読み聞かせによる発達の記録(ドロシー・ニール・ホワイト『五歳前にあたえる本』)との比較です。

ドロシー・ホワイトの娘キャロルは、理解できない言葉を聞くと「膨大な量の説明」を要求したと。…これは、知的欲求のあらわれですよね。一方クシュラのほうはわからない言葉は黙って受け入れ、先を知りたがっていたのだと。

この比較への著者の考察はこうです。そもそも「二人は本質的に異なる性格の子どもたちかもしれない――キャロルにとって"知る"ことは先へすすむことより大切であり、クシュラは果てしなく聞きたがる。クシュラにとって、理解は二の次だったといえるのではないか?」

更に、絵本『おちゃのじかんにきたとら』などで、玄関のベルが鳴って、お母さんが誰が来たのだろうと想像するシーンで描かれるような絵(お母さんの頭の中で考えられている牛乳やさんやお父さん)について。

「ドロシー・ホワイトは、登場人物の想像のなかにのみ存在するものは、描かないようにしてはどうかという。そして次のように推論する。『子どもにとって、絵の中にあるものは存在する。というのならば逆もまた真なりで、絵にないものは実在しないのである。』ここでもホワイトは、キャロルがものでも人の体でも、絵に描かれていなければ存在を信じなかった例をひいている。"腰からしか描かれていない"母親の絵を見て、キャロルは質問した。『ママのあたまはどこにあるの?』

つまり、牛乳やさんやお父さんの絵は、幼児を混乱させるというのでしょう。でも、これについては、クシュラは理解している。これを、著者は「本質的に異なる性格の子ども」つまり、タイプの違う子どもだと言っているんですね。

タイプの違いと言ってしまっていいのか、教育によって変わるものではないかという気もしますが、なるほどと思いました。

この理解の仕方の違いは、大人になっても、私の周囲の世界にも散見されるように思います。絵本や幼児の話にとどまらず、色々な問題と関わっているんじゃないですかね。

この本はなかなか鋭くて、物語の本質についてもわかりやすく書かれおり、あらためて考えさせられました。