物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

独りでいるより優しくて

日曜日、都立町田高校演劇部「はなさかさん」再演を観に行きました。高校演劇って好きなんです。「はなさかさん」は去年、都大会、関東大会まで行ったそうです。

去年、私が観たのは地区大会ですが、今回は順番も入れ替わっていたし、特にラストは大幅に違っていてびっくりしました。まるで高校生が日々成長していくように、物語が脈打って生きているみたい。一箇所動かすと、必然的にあちこち動きますしね。これこそ本来の演劇の醍醐味なのかもとしみじみ。

以前、私たちのグループで演劇をしていた頃も、演じるたびにアレンジしたくなったものです。それ以前に、演じる回によっても違うし、演じる人によっても変わってしまいますね。やっぱり、そうやって動いているところが演劇って面白い。

それに比べて小説の面白さは、逆にテキストがかっちりしているところ。テキストは遺伝子情報みたいなものでしょうか。それを読み解いた人の頭の中で、かなり高度に創造的なことが行われます。まるで芝居が演じられているように、頭の中に世界がつくられていきます。

〈読書会〉というのは、その各自が頭の中でつくりあげた芝居の演出法を語り合うものと言えるかもしれませんね。

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そういえば、先日読み終えたイーユン・リーの長編小説『独りでいるより優しくて』は、ものすごい世界。読み応えがありました。

そうそう、そこに読書会というものがちらりと出てきましたよ。アメリカで夫と子ども2人と裕福に暮らしているセリアが友人たちと3人で立ち上げた会。今は別の活動になっているけれど、もともとは「最後まで読んで話し合う」という読書会だったよう。

このセリアに雇われている中国人の女性、如玉(ルーユイ)が、この小説の主要登場人物の1人。雇い主と雇われ人の関係を越えて親しくなりそうな気配のある2人。お互いを尊重しているように見えるし、どこか風変りで、何ごとにも真面目に向き合いすぎるところはよく似ています。でも、距離は縮まりません。

普通、人と親しくなればなるほど距離は縮まっていくものですが、如玉(ルーユイ)に限らず、小説の主要人物である中国人4人は、人との距離を縮めることができません。

たとえば、主要人物の黙然(モーラン)は平凡で人との和を尊ぶタイプの女性です。が、彼女が心を開放できるのは、遠い異国や大昔の小説を読むとき。つまり他人になって人との関係を経験するということでしょうか。親子ほども年の離れた元夫が死を目前にしたことを知り、やっと近づくことを選択します。

1989年に天安門事件があってすぐの頃、彼等が高校に入学したばかりの頃に陰惨な事件に関わってしまったのです。女子大生が毒を飲んでしまったのです。自殺か、他殺か。以来、彼らの精神は蝕まれ、孤独になっていきます。

人との距離を必要以上にとることが普通になった現代、これは普遍的な法則にも思えますが、全然違いますね。その違いを、読み終えてから考え続けています。