物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

芽むしり仔撃ち

デリリウム17」の後でしたので、大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」を読んだのはショックでした。思い切りガツンと頭を殴られた気分。ライトノベルではなく、リアリズムで表現するとこうなるんだな…とも思い知らされました。

描かれ方の違いは大きいですよ。どれだけ物語に入ってしまうかどうかの深度が大きく違ってきます。構造は似ているのですが、描かれ方…主人公の見ている人々や風景や自分の心が細部まで観察されていると、自分の体験に近くなってきますのでね。

嘘をつくことに慣れて飼いならされていく群衆と、彼等の残虐性。自分の意志をもってそこから離れていく人。最後、大事な人と別れて、ひとりで囲いを越えていくというところも、物語の構造としては同じでした。

ただ、描き方もそんなに違うわけではないかもしれません。大江氏が児童文学に慣れ親しんでいたというのも、読んでいて感じました。物語の舞台は、第二次大戦中の日本の山村。学童疎開をしている感化院の子どもたちを描いているせいだとも思いますが、少年独特の子どもらしく純粋で、ある意味独善的でドライとも言える見方から、海外の児童文学を読んでいるような気分にもなるのです。

でも、逆に、やはりノーベル文学賞を受賞した作家ウイリアムゴールディング「蠅の王」との比較、その違いも考えさせられました。

「芽むしり仔撃ち」が疫病の流行った山村に子どもたちだけで残されるように、「蠅の王」もイギリスの疎開児童たちが無人島に取り残されるのです。どちらも閉塞した状況下、「芽むしり仔撃ち」では違う立場の子どもたちも協力し合ってうまく生活していき、「蠅の王」は対立がとんでもなく激化していく…。

どちらもリアルな世界を描いているのだと思うんですが、この違いはなんなのだろうと。悲劇が起こる場所がズレているということもあると思います。

「蠅の王」では、大人たちが現れて、ひどく野蛮な状況に陥っていた子どもたちは我に返ります。戦争しているのは大人たちですが、単純に救われると言い切れませんが、人間に戻って恥ずかしい思いもするのです。

「芽むしり仔撃ち」は、大人たちが来て初めて、悲劇が始まります。芽むしり仔撃ちが始まるのです。欧米と日本の違いなのでしょうね…。

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「芽むしり仔撃ち」は、この全集1に入っている唯一の長編です。