物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

デモクラシーと表現活動

このところ演劇をたくさん見ていました。プロの劇団ではなく、若者による公演です。

まず「ロミオとジュリエット」を見ました。美しい若者を見るだけで楽しいし、迫力があったし、演技も上手でしたが、何かもやっとした気持ちが残り、なんなのだろうと考えていました。

ギャグが笑えないことか? でも、もともと16世紀イギリスのシェークスピアの戯曲を読んでも笑えないかもしれないですしねぇ。…いや、実はきちんと読んでいなくて、映画でストーリーを知っているに過ぎないのです。

浮気者のロミオ。それまでも女性を追いかけて泣いたりしていたようですが、それは遊び。ジュリエットに、初めて本気で恋をしてしまうのですよね。私が見た演劇では、その落差が感じられなかったからか?…確かに、いくつもある恋愛のひとつがジュリエットとの恋という印象でした。

恋愛よりも、激しい諍いを続けていた両家が仲直りをするところが際立って、平和が大事だというラストは、それは確かにそうだとは思うのですが、そうであれば、若い二人の恋愛が本物でないと嘘くさくなってしまいます。二人の恋愛が悲劇というより、自業自得のように思えて、たぶんそこが腑に落ちないのです。

そういう上から目線の読み方は、とかく読解を歪めるものです。乳母と召使に対する執拗な蔑みの笑いも、過度の上から目線が見えるような気がして、笑えなかったのかも。

と言っても、やはり、きちんと戯曲を読んでいないのでね…。読んでみようかな。

こんなことを思ったのは、先日読んだローレン・オリヴァー「デリリウム17」が頭にあったせいもあるとは思います。

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恋愛が病気とされ、18歳で恋愛しないように脳手術を受けることが義務づけられている未来社会では、なんと「ロミオのジュリエット」は恋愛の実害を知るために読むことが推奨されているのです。でも、主人公は密かに、いや無意識に美しい物語だと思ってしまうんです。試験の面接でついそれを口に出して、周囲を凍りつかせるシーンがありました。

この本に描かれる、暴力が横行する管理社会で推奨されている読み方に近いように思えたんです。

 

この土日は、高校演劇の都大会にも行ってきました。二日間、隣合ったふたつの会場で二公演ずつ行われていたので、その都度選んで見ることになりました。なので、全部は見ていないのですが、個人的にびっくりしたのは…というか勉強になったのは、駒場高校「かわいそうなうそ」と開成高校の「migiwa」です。

前者では、人間の物語とその足元を歩くアリの行列とが同時に表現されて関わりを持つ場面など、後者では、ビルのそれぞれの階を描き分けつつ高さや街の空気を感じさせるなど。どちらも舞台の表現の仕方が独特で、重層的で、創作意欲をかきたてられました。

文化祭のクラス劇に近い軽いものから、そういった独自の方向に発展させた作品もあり、恐れず深くテーマを掘り下げた作品もあり、さすがに高校生は元気。若いエネルギーと、そういった多様性には元気づけられます。

流動的読書会に参加している町田高校の「夕方デモクラシー」は地区大会も見ていますが、もう一度見ました。これは、現代では表現しにくいことをストレートに大変わかりやすく表現した気持ちの良い作品。細かな改良もなされているようでした。でも、会場は満員でウケも良かったし、テーマも旬だったのに、何の賞ももらっていないのはちょっと気味悪く思いました。

わかりやすいのが難点というのなら理解できますが、そうではないでしょうね。現代、わかりやすい方が評価されるものです。(先日の私たちの読書会で大江健三郎「死者の奢り」をとりあげたときのダメージもまだ残っていますよ…)

ロミオとジュリエット」のもやもやと関連するような気がして心配。なんと言っても民主主義あっての表現活動ですからね…。

ホントに「ロミオとジュリエット」を読んでみます。