物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

Y字路のつづき

 先日のY字路のの話のつづき。
 
 アーヘンさんにもコメントをいただき、他のかたにもメールをいただきました。
 Y字路が内側に入りこむ入口だとして。
「沖縄では、Y地路に石敢當(いしがんとう)と彫られた石が置かれています。魔物(まじむん)は真っ直ぐにしか進めないので、そこに石があれば、ぶつかったまじむんは砕けとんでしまうのです。」
 へえ、なるほど~、と思いました。
 
 だとすると、Y字路というそのどこか異界に入り込む入り口をそのままストレートに描くのが絵画なのかな。または、絵画は石敢當を前もって置くという行為なのかもしれないなと思ったんです。
 何か(入口が)ここにある、と直観で察知するから、絵を描いてしまうんですものね。――本当は直観ではなくて、言葉とは違うルートで思考した結果だと私は思っていますけどね。
 
 あれから、横尾忠則さんのY字路シリーズの画集を二冊ほど見ました。同じ場所をこれでもかというほど繰り返し色々なパターンで描いていることに驚きました。勤勉なかたなのだなぁと。そうじゃないと、正確に表現できないのでしょうね。
 
 一方、小説を読んだり書いたりすることが絵を描くことと反転し行為だとすると、それは、魔物になってみることかもしれません。魔物に憑依する(笑。
 魔物を自動的に削除しようとするのではなく、魔物の気持ちになって魔物の心理を辛抱強く観察して、行動を予測することです。それによって色々なことが見えてくるし、策を練ることもできるということではないでしょうか。
 
 現代、文学を骨抜きにしようとする力は大きいように思います。そこには、文学がイデオロギー的で主義主張があるという誤解からきていると思いますが、それは読解が出来ていないから思うことであって、本来はどこまでも中立なものだと思うんですよね。 
 このままその重要な役割を無視して趣味や娯楽としか位置づけしないままだと、取り返しのつかないことになってしまいそうで気がかりです。
 美術も文学も人類の未来を考えるには、必要なものだと思うのですよ。
 
そんなことを考えていたカフェは妙に落ち着いていて…。これもY字路?

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