先月の国木田独歩『武蔵野』に続き、今月8月28日の読書会は明治の作家・樋口一葉「十三夜」を取り上げてみました。
私も含め、皆さん、一葉の古風な文体が読めるかなぁと心配でしたが、むしろ心地よい文体にはまった方が多く盛況でした。
音読したり朗読を聞くことで物語がすっと入ってきたそうですよ😌

資料がたくさん保存されていることに驚きました。
「十三夜」は身分不相応の家に嫁いだお関が、夫による暴言に耐えかねて実家に戻ってくるところから始まります。お関はその惨状を両親に訴えます。が、それはあくまでも彼女の主観であって、鵜呑みにはできない雰囲気です。
一目惚れで強引にお関と結婚した夫が意味もなくひどい仕打ちをするとはちょっと考えられないし🤔7年の間に何かそれなりの理由があったのかな。
現代でもよくあることとして思いつくのは、生まれた子供に妻が夢中になって夫との距離が広がってしまうことでしょうか。その証拠に5歳の息子は母親にべったりだとも書かれています。
「でも、それなら、お関はどうして子供を寝かせて簡単にひとり実家に逃げ帰ってきたのでしょう?」お関に違和感を覚えるという疑問の声もありました。何人かの人が同意しました。
「もしかしたら、まだ若く未熟な女性なのかな?」
娘の口から泣き言を聞き、母親は全面的に娘の肩を持ちます。対して父親は、最初は一緒に腹を立てていたもののやんわりと態度を変え、我慢するしかないと言います。
簡単な解釈をすれば、娘のことをひたすら心配する母親と、自分たち夫婦と息子の生活を案じてお関に我慢を強いる父親と読めなくもありません。
「でも、そうは読めないですよね」と何人かの方が言いました。
父親は自分たち家族だけでなくお関とその子のことも考えており、より広い視野に立って冷静に意見しているのです。もっと大きな目で見た場合、このまま何もなかったことにして帰った方が良いだろうとアドバイスするのです。
父親は、厳しく命令するのではなく、ある意味両親より高い身分となった娘を立てつつ穏やかに諭します。娘に十三夜のお団子を食べさせたいという親心も感じられ、温かなものが流れています。お関という娘は、きっと大事に育てられてきたのでしょう。
結局、お関は子供と会えなくなることを恐れ、車に乗って帰宅します。が、このお関を乗せた車夫が、かつて半ば恋仲だった幼馴染だと判明します。
詳しく書きませんが、男の話から、お関は可哀そうな被害者というだけでないことが見えてきます。
この反転、世界の広がりがこの作品をただのストーリーで終わらせていないところなのでしょう。読書会の最後は、お関がこの後どうなるか、どうするべきか、自分ならどうするだろう等様々な意見で楽しく盛り上がりました。

一葉は、戯作家である半井桃水に学んでいますので、小説の物語構造がかっちりあります。「十三夜」も、始まりから終わりまでを繋ぐ淀みない物語になっていますが、でも、登場人物に宿る現代人と少しも変わらない生き生きした心理が伝わってきます。
24歳までしか生きられなかった一葉がこれを書いたと思うと気が遠くなります。
西洋から入ってきた文学というものを模索する明治の作家として、国木田独歩が『武蔵野』(「忘れえぬ人々」)で映像的に鮮やかな人間像を描くことを心掛けたのだとしたら、一葉は人間の本当の心理を描きだそうとしているのでしょう。













