昨日の午前中、PTA各委員の代表が出席するの運営会議でした。途中、耳鳴りが大音量になり、やばい、やばいと焦りましたが、そう感じるのは私だけなのですよね。
個人的に挨拶、打ち合わせは滞りなく行いつつ、面倒なので難聴のことは伏せておきました。目の前にいる人の声は、だいたい聞こえますのでね。この大音量が周囲の人に聞こえないというのはなんだか不思議に思われます。
その後、鬱病友の会(正式名称は忘れてしまいました)の頃の友人と昼食を共にしました。私が鬱になったのは13年前のこと。今より20キロ近くも痩せていましたっけ。……体重的には、痩せすぎていたのではなく、今が太りすぎなんです。
当時、私は病院に行かず薬も服用しなかったので、情報ほしさに一世代上の人達の自助学習会に何度か参加したのでした。
会長だった男性はむしろ病気のせいでリストラを免れ、休暇にバリバリ勉強もして、出世したと聞きます。友人も、病気が治りつつあった頃にちょっと無理して正社員となりました。働いてもうすぐ10年。表彰されたり、色々あるみたいです。
友の会の人たちは、病気になっちゃうくらい生真面目に建設的にものを考える特徴がありました。他人の気持ちを考えすぎるところもあり、そういうのが原因で病気になっちゃったというのもあるかもしれないけれど、元気になると恐ろしく前向きでもあるのですよね。
うっかり、突発性難聴が鬱と少し似ている、などと言ってしまったため、真面目な友人を刺激してしまったらしく、難聴の話しかできなくなってしまって申し訳なかった…。
さて、今日は隣町まで買い物に。ひと休みした店の中、私のよく聞こえないほうの耳の側で、突発性難聴の話を長々している人たちがいたんです。罹る人って、案外多いのでしょうか。なかなか治らないという話のようでしたが、よく聞こえないので、かえって気になって困りました。
そんなことに気をとられながらも、町田町蔵こと町田康の『くっすん大黒』に収録されているもうひとつの短編「河原のアパラ」を読みました。
ラストはなんじゃこりゃと首をかしげましたけれど、途中はすっごく面白い。というか、今の私にとって癒しとなる物語なのでしょう。超どうでもいい日常の中、ドキドキハラハラの冒険ものとして読みました。
相変わらずのろくでなしの主人公が、アパートの大家のおばあさんにベルで呼ばれてこき使われれるシーンでは、彼は、ガルシア・マルケスのエレンディラのおばあちゃんを連想したりしていました。この時代の人って……私よりちょっと年上?かな……は、教養があるんだな~なんてもちょっと悲しく思う。
で、ぜんぜん関係ないけれど、今夜のデザートはパッションフルーツでした。時計草の実なんですよね。これも、不思議。というか、すごい色。