物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

桑の実

庭木の剪定に苦労したことをブログに書いたら、友人が「大変だったね」とおいしいコーヒーをごちそうしてくれました。労力が報われるとちょっと元気になります。

話を聞いたら、そのかたも自宅敷地内の大木をどうしたものかと悩んでいるそうです。自分で下手に切ったら、木の下敷きになってしまうのではないかと。そうですね、もう若くないのだから、無理は禁物。

今朝、もう一度茂った桑の木のトンネルに入ってみたら、なぜか今年は桑の実がたくさんなっているです。その隣のカジイチゴはさっぱりなんですけどね。どうしてだろう?という疑問も、最近は異常気象が普通になっているので、すぐに消えてしまいます。

それよりも、黒ずんだ重そうな実が地面にいくつも散らばっているのを踏んでいることに気づきました。これは、このままにしておくと、さらにひどいことになりそう…。

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というわけで、急きょ熟した実をざるに収穫しました。きっと子どもが食べるでしょう。私はこれくらいを朝食のヨーグルトに入れていただきました。

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木の実

うちには庭なんて呼べる土地もないのに、ちょっと油断すると家の周囲がジャングルになってしまいます。土地がよほど肥えているのでしょうか。メイちゃんがトトロのところに行くトンネルをくぐるみたいに、どこか異界に迷い込んでしまいそうです。

疲れたなぁと、夕方久しぶりに早めに帰宅したのですが、暮れかかった日差しの中でジャングルの前に立ち、呆然としてしまいました。いやぁ、これは、もうダメですね。近所からく苦情がくるレベル。

疲れたついでに庭木の剪定をしようと決心。が、腕をずっと上に上げているって思ったより疲れるのですよね。特に茂った二箇所だけですが、目いっぱい刈りました。でも、枝を細かくして大きなゴミ袋4つに詰めたところでギブアップ。残り半分は後で詰めることに。明日、肩があがらなくなりそう…。

やれやれ、とまだこんもりしているトンネルの天井を見上げると、桑の実がこんなに。

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黒々しているのをひとつつまんでみました。うーん、私にはちょっとすっぱいかな。娘や息子は好きですけどね。

昔、子どもたちが小さい頃、近くの森の蜜柑の木から勝手にとってよく食べていました。真似をして口に入れたらすっぱいのなんのって。飲み込めませんでした。そんなところに残っている蜜柑はすっぱいのだけなんです。

よくこんなの食べるねと言ったら「あんまりすっぱいから体が熱くなるんだよね」「そう、あったかくなるんかだよね」などと、2人で真面目に答えていました。あれは冬のことでしたっけ。

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それよりも私は、自分のパソコンの横に草花を。癒されます…。

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相模原でミーティング

今年も8月最後の土・日・月に社会教育研究全国集会が神奈川で行われます。会場は相模女子大です。

地元ということになるそうですので、私たちも公民館部会のお手伝いをするべく、橋本でのミーティングに出席してきました。相模原の学習グループの方々にお会いし、その前向きなパワーが少々羨ましくもありました。お話をしていると自分たちはだいぶエネルギーが低下しているように思われます。

良くないですねぇ。どうしてでしょうねぇ。

社会教育の重要性という観点で、相模原市がまだ(?)公民館が無料で自主的な学習活動が活発だということも大きな要因でしょう。でも、それだけでなく、私たちよりも少しだけ上の世代ということもあるのかなと。私たちよりも足の下にまだ地面がたくさん残っている印象です。

どうして私たちの足の下には地面があまり残っていないのだろう。いや、地面は大事ですよね。どうしたらとり戻せるのでしょうねぇ…ということをずっと考えていました。

今年の課題別集会ではやまゆり園のことがとりあげられるらしく、この問題についても話題になりました。私もこの事件のことは色々なところでつながりもあり、ひどく気になって「現代思想」の特集号も買って読んだのですが、ここに紹介するエネルギーがありませんでした。

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まずエネルギー補充のため、癒しのための読書を。

読者のものすごい数の質問に答える「村上さんのところ」を読んでいます。こういう人生相談もあるのだな…と。

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編集会議

明日の午前10時から正午まで、いつも読書会をやっている多目的室で、次号読書案内「ピッピのくつした」の編集会議があります。編集作業をしたいかたはいらしてくださいね。

次号の編集長はミズタマさんですので、特集は「虫」ということになっています。私も虫が好きですし(? いや、誤解しないでくださいね。観察が好きなんです)ミズタマさんだからということもないのですが。

いや、でも、ミズタマさんは確かゾウムシだったか何かの幼虫を食べたことがあると言ってましたからね。キャラメルコーンみたいだったとか(笑。

似ているようで、前回の「猫」特集とはだいぶ違う、アングラ・マイナー路線になりそうな気配です。よろしくお願いしまーす。

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観察

今日はちょっと調べものがあって、某大学の図書館に出かけました。

乗っていた電車の車輌は、そんなに混んでいなかったんです。今のシートは1人の座る領域が微妙に区分けされていますからよくわかるんですが、7人がけのシートに私の側は6人、向かい側にも6人座っていました。

みなさん、電車の中でスマートフォンをよくいじっていますよね。私は最近ガラケーからスマートフォンに移行したばかりのせいかもしれませんが、なんだかカバンから取りだすのが億劫なのですですよね。仕事の連絡メールが来るはずだったので、気をつけていたほうが良いのはわかっていても、まあいいか、とぼうっとしていました。

で、つい数えました。こちらのシートでスマートフォンを操作しているのは3人。]向こうのシートでは4人でした。残りは5人。

こちらのシートの私を含めて3人は何もせずにぼんやりしています。40代か50代の女性で、まあ、ちょっと疲れている感じですね。

対面の2人は読書していました。やはり今でも電車で読書をするものなのですねぇ。分厚い文庫をさりげなく読んでいる年輩の男性と、ハードカバーのを片手で持って宙に浮かせている若い男性。

良く見ると、その本は村上春樹の「海辺のカフカ」でした。彼の熱心に読んでいることといったらありません。年輩の人が渋茶に手を伸ばすような力で読んでいるのだとすると、若者は獲物を狩るような勢いです。物語世界をじっと凝視しています。

すっかり感動してしまって、私は手帳を出してメモしました。これで、こちらのシートは、2人はスマートフォン、2人はぼんやり、1人は手帳にメモですね。

若い読者のための短編小説案内

「若い読者のための短編小説案内」を読み終えました。

 私の場合は、ここで取り上げられている短編小説をまず読んでから、村上春樹氏の文章を読みました。手元に短編小説を全部用意してから読み始めたので、交互に読むリズムで通しました。

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 でも、先に小説の紹介文を読んだら別の面白さが味わえたかも、と小島信夫「馬」の章を読んだときに思いました。この小説があんまり奇妙な物語だったからかと思いましたが、この後に紹介された小説も、作家の代表作というよりはそれぞれ際だった特徴のあるものばかりだったで、条件は同じかもしれません。
 それが面白かったとも言えますけれどもね。どっちが先のほうがよいかは、人それぞれでしょうか。
 後半は、庄野潤三「静物」、丸谷才一「樹影譚」、長谷川四郎「阿久正の話」です。前半の3人の作家の小説は何作も読んだことがありましたが、この方々の小説はほとんど読んだことがありませんでしたので新鮮でした。村上春樹氏の文章と一緒に読めるというのも、とても贅沢です。もう、ものすごい満腹感です~(笑。
 この短編小説案内は、プリンストン大学とタフツ大学で授業をしたときに学生と一緒に日本の短編小説を読まれたことと、この本を書くために文藝春秋社で編集者のかたがたと同じように読まれたことを土台にしているようです。
 方法は、まず参加者がテキストを読んできて、村上氏が発表し、みんなでディスカッションするというやりかたらしく、私たちの読書会とほぼ同じではないですか。
 参加者にお願いしたことが3つ「あとがき」書いてあり、これも、私たちの読書会と同じだと思いました。いえ、強制ではありませんが、これをするととっても面白いですよ、ということです。
 
「ひとつは何度も何度もテキストを読むこと。細部まで暗記するくらいに読み込むこと。もうひとつはそのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること(つまり冷笑的にならないように努めること)。最後に、本を読みながら頭に浮かんだ疑問点を、どんなに些細な事、つまらないことでもいいから(むしろ些細なこと、つまらないことの方が望ましい)、こまめにリストアップしていくこと。そしてみんなの前でそれを口に出すのを恥ずかしがらないこと、である。」
 
 本当に、その通りだと思います。
 
 引用されている本を読まないと落ち着かなくて中断していましたが、これで安心して「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読むことができます。

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安岡章太郎「ガラスの靴」

先日から読んでいる「みみずくは黄昏に飛びたつ」は大変面白く読んでいます。この本の中に何度も出てくる「若い読者のための短編小説案内」も、今更ですが読み始めました。

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せっかく連休ですので、ここで紹介されている短編小説と村上春樹氏の文章を交互に読んでいこうかと、吉行淳之介「水の畔り」、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」まで読みました。3作ともかなり独特です。「馬」などは、ほとんど正気とは思えないくらいです。でも、なんとなく懐かしい。

特に「ガラスの靴」ははっきり読んだのを記憶していますが、内容はまったく覚えていないのですよね。うーん…あまりに昔だからかな。その香り、というより淡い色合いみたいなものだけが残っているのですよね。

私の読書体験は、高校生になって村上春樹氏の最初の2作を読んだことでネジがとんでしまって、それ以前の記憶があやふやになってしまっています。「ガラスの靴」は、たぶんその直前の中学を卒業する頃に読んでいるはずで、それを思い出しました。いきなりネジがふっとんだのではなく、最初のステップは「ガラスの靴」だったのです。

主人公の若い男性は昼間は学生、夜は銃砲店で夜警をしています。この男性は仕事の関係で、原宿にある占領軍のグレイゴー中佐の家でメイドをやっている女性と知り合います。中佐が長期留守にしている間、彼は毎日遊びに行くことになるのです。

この男性ま感覚がとても新鮮でした。たぶん、女子中学生だったときもそう感じたのでしょうね。「ガラスの靴」は昭和26年に雑誌に掲載された短編ですが、少しも古さを感じません。今読むと、むしろ現代的ではないかと。

村上氏はこの作品を切羽詰まったファンタジーだと言います。「どうして切羽詰まっているかというと、作者はこの作品の中で『我々はどれだけ遠くまで現実から逃げられるか』ということを、ひとつの大きなテーマにしているからです。」

あ、なるほど、と思いました。逃げているんだなと。この逃げるという感覚が、中学生だった私にはしっくりきたのでしょう。私は内気でおっとりしたタイプでしたが、実際、逃げ足だけは早いと自覚していました。そもそも、前に進むことと逃げることが同じことを指していた年頃なのかもしれません。時代としても、そういう時代だったのか…。

年を取るにしたがって、だんだん逃げることが苦しくなってくる。時代も変わりました。

1997年刊のこの本の安岡章太郎の章の最後はこうまとめられています。

「一読者として、安岡章太郎という作家のそのような足跡をたどっていくこと自体、ひとつの貴重な文学体験であるだろうと僕は考えているわけです。そしてそれは、戦後文学の流れの中にある、何か重要なものを示唆しているのではないかと。」

 

連休中に残りを読んでしまおうと思います。