今後の予定
今月の例会は11月22日(金)場所はいつもの町田市民フォーラム3階 多目的実習室です。
少しずつ寒くなってきましたので、午前中のリフレッシュお茶会(10時~12時 参加費無料)は軽い体操やストレッチなどもして心だけでなく身体もほぐしましょう。
午後のささやかだけれど役にたつ読書会(13時半~15時半 参加費500円)では川上弘美『水声』をとりあげたいと思います。タブーな世界に入って行こうとする小説です。参加するかたはあらかじめ読んできてくださいね。
その後の予定は…
12月20日(金)の午前中のお茶会の途中から、すいとん入りピンクシチューで忘年会を予定しています。血行も良くなるピンクシチューを是非食べに来てくださーい。
読書会でとりあげる本はドストエフスキー『やさしい女』(または『おとなしい女』というタイトルになっている短編)です。
1月24日(金)読書会はチママンダ・ンゴスティ・アディーチェ『なにかが首のまわりに』(web河出文庫で全文が読めます)の予定です。
最近、私も更年期のせいか血圧やらコレステロール値やらが上がり気味。運動とゆるやかなダイエット。ダイエットと言っても食べる量は減らせなくて、お菓子は半分、肉の代わりに魚を増やし、野菜を今までより多くとるくらいですね。それでも大変。
このひと月で1.5キロくらいなんとか落ちました。若い頃は痩せるのは簡単でしたが、この年になると難しくなるのですね…。
でも、体調はびっくりするほど良くなりましたよ。
「ティファニーで朝食を」読書会
カポーティ「ティファニーで朝食を」の読書会はみんなで深いところまで読むことができたので、そのことを書こうと思っているうちに日がたってしまいました。
言葉にすると薄っぺらくなりそうなのです。天才であるカポーティが奇跡のように描き出した作品を理屈で説明するのは土台無理な話です。
不思議なのは、戦時中のニューヨークの物語の中に、バブル期直前の私自身の、いわゆる青春体験と重なる部分があることです。
小説ってそういうものなのですね。
小説の中でカポーティの分身のような「僕」やバーの店主ジョー・ベルがホリーを思い出すように、今でもそのホリーに似た友人を思い出します。私の人生の分岐点となった時代と場所に大きな存在としていた友人は、その後、小説と同じようにどこかに消えてしまいました。
ホリーに瓜二つの彼女は、やはり尋常でなく人に好かれましたが、非常識で、私の許容範囲を越えていました。
よく彼女にホリーのセリフのような謎めいた言葉をポンと放られ、何の気なくキャッチしていましたが、三十年以上たった今でも思い出すというのは、その答えをずっと考えてきたということなのか…。
小説を読み解くことで、まだ解けていない謎を考える面白さがありました。
今、更年期というまた大きな分岐点にいると、青年期がひどく輝いて見えますね~。
10月25日は読書会です
次の例会は10月25日(金)、場所は町田市民フォーラム3F多目的室です。
午前10時からのお茶会は無料です。お菓子食べながら楽しくおしゃべりしましょう。
最近は情報や話題が多いので、今回はあえてテーマを決めませんので、皆さんそれぞれ話したいことを持ってく来てくださいね。
13時半~15時半は読書会。参加費500円です。
トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」を読み解いてみようと思います。映画が有名ですが、小説も面白いですよ。長い作品ですのであらかじめ読んで参加してください。
これは手持ちの村上春樹訳の本です。猫ちゃんが出てきましたっけね。
実は、今日は東大のホームカミングディというのに行ってきました。水餃子を食べたり、図書館見学ツアーに参加したり。
それから、読書会を開催することとも関連があると思いましたので「ことばの危機 入試改革・教育改革を問う」というシンポジウムに参加してきました。
言葉で伝えることは不可能に近い。自分とは違う他者とのコミュニケーションがいかに難しいか、そのコミュニケーションをどこまでも続けていこうというのが文学だという認識に共感しました。困難を乗り越えるために、文学は実用的なものだと思いますね。
読書会はひとつの正解を見つけるものでもありませんし、みんながそれぞれの感想を持てばよいというものでもなければ、誰が一番という順位を決めるものでもありません。
参加者みんながそれぞれの角度から見ていくことでダイナミックな物語のうねりや構造や実際に役立つ重要な情報が読み解けていくものだと思います。みんなで協力し合って読めば、ひとりでは到達しえない深いところまでたどり着けます。
読書会、是非、参加してみてください。
27日のお茶会と読書会、ありがとうございました。
27日の報告をします。
午前中のお茶会。メンバーの近況報告からだいぶ踏み込んだ話になり…そうそう、メンバーがいつもと違ったせいか意外な方向に展開し、広がっていきました。
話題作りに絵本を読もうと思っていたのですが、不思議に最初から関連した話題にもなっていて、教育やアートの話から、化石やロシア料理や海外からの留学生のことなど。最後に読んだ絵本も皆で読むと楽しいものですね。
読書会は安部公房の短編『闖入者』、昭和27年に発表された作品です。
若者が住むアパートの部屋に、突然大家族がぞろぞろやってきてノックします。中に入れしまったのでしょう、そのまま住み着いてしまいます。あろうことか若者よりもアパートの住民たちと仲良くなってしまいます。民主主義の多数決の原理を使う彼らに対し、若者はうまく反論することができません。ガールフレンドまでとられてしまい、どんどんひどいことに…。
戦後入ってきた民主主義の落とし穴について書かれているのではないかという意見から読書会は始まりました。確かに、民主主義を標榜する一家はもっともらしいことを言いますが、何かがおかしい。
そうだとして、若者はどうすれば助かったのか?助かる方法は?
そもそもまずかったのは、若者がアパートの住人と仲良くしていなかったこと。人と繋がることが苦手なのでしょう。簡単に人を信用してはいけないけれども、信用しないと始まらない…。
感想の一部。
「主人公の視点で闖入者のなんと怖いことかと読んでいましたが、すべての闖入者が悪意を持っていたわけではないとの感想にハッとした」
「突破口は相手をよく見ることだった。ただ敵だと思って見ていると何も見つからないけど、敵もすべて同じ考えじゃない。案外敵じゃないのかも」
バースディパーティ 昆虫/アンセクト
夏が終わる9月というのはどうも苦手。気分がずんと暗くなってしまうのですが、ひとつには自分の誕生月だからというのがあります。あまり良い思い出がないのですよね。私が生まれた日が母に人生最悪の日と言われたのが(自分で出産を経験して痛みを過激に感じてしまう体質だというのを理解はしましたが、やっぱり)トラウマになっています。
そんなことを読書会でしゃべることもあるものですから、有志の方々がバースディパーティを開いてくれました。多謝です。
上はビーツ+りんごジャム入りのロシアンティです。生姜とシナモンの香りがきいていました。ひれから、持ち寄りでご馳走をこんなに。
私はお礼に、フランスの若い作家クレール・カスティヨンの短編集からひとつ朗読しようかと。この作品集は母と娘をテーマにしたものばかりなのですが、かなり屈折していて毒あるものばかり収録されています。「代理ミュンヒハウゼン症候群」などというタイトルのものもあります。装丁からも雰囲気が伝わるかと。
その中から一番面白いなと思った「昆虫/アンセクト」を朗読してみました。昆虫を偏愛する母親、才能豊かな絵を描く父親、胸がふくらみ始めた一人娘の三人家族。語り手である母親の目に映る恐ろしい妄想世界が綴られていきます。
でも、その妄想世界は妄想に過ぎなくて、そういうところに気持ち良く救われます。手放しでハッピーとは言えなくてなんとなくもやっとした危うさはあるものの、とりあえずほっと息がつけるのがいい感じだなぁと思います。
ちょうどバースディパーティが始まるところで物語が終わるのです。
ケーキの飾りつけはその場でしてくれました。黒いのはタピオカではなくてブルーベリーと巨峰ですね。レモンの皮のグリーンとミントの葉も生命力あふれていて、芸術的な事故レーション。
なんかすごい…。エネルギーを放出しているようなケーキです。
わおっ。
切り分けるのはちょっと難しかったですね(^^♪
ケーキと一緒に元気をいただきました。
抒情文芸「蟻んこ」
「抒情文芸」2019年秋(第172号)が送られてきました。
今回投稿したのは「蟻んこ」という短編小説。女の子の虐待を描いたものです。なかなか暗い作品で、これ、私にとっては新境地かもしれません。
具体的な場面としてはすべて想像によるフィクション。でも、昔の自分の体験を別の形に置き換えたものとも言えて思い入れがあったので、掲載されて大変嬉しかった。救われたような気がしました。
これを書いているときに、みずたまさんに誘われて新国立美術館のクリスチャン・ボルタンスキー展を観に行ったのですよね。フランスの現代アートを代表するボルタンスキーの50年間の軌跡をたどる展示。最初にあった嘔吐する人の映像などが自分の中にあった記憶を良い意味で刺激してくれました。
会場はすごくきれいなんですけれど、これはホロコーストで亡くなった人々の着ていた衣服を思わせる上着でできたぼた山。
ボルタンスキーは1944年生まれなのでご自身の記憶にはないでしょうが身内から聞いたナチス占領下の出来事がトラウマになって作品に影響しているそうです。回顧展で流れていたインタビュービデオでトラウマが表現の核になるという話になるほどと思ったのでした。
アートや文学というのは正しさを証明したり説明したりするものではなく、作者の体を通して現実がまっすぐ表現されていることが必要なのではないですかね。暗いものやマイナスのものであっても、そこに作者にとっての嘘がなければ、鑑賞する人にとっては有意義な体験になるのではないかと。
未来を想像するときのひとつの足がかりになるわけですから。