物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

カーヴァーの伝記を読み終えて

 7月26日に紹介して以来、何度か話題にしている『レイモンド・カーヴァー 作家としての人生』(キャロル・スクレナカ著 中央公論社)をやっと読み終えました。だって、二段組みで730ページくらいあるんですよ~。

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 でも、読んで良かった。作家である著者の熱意が尋常でなく、ものすごくたくさんの人の言葉によって色々なことが検証されているんです。でも、村上春樹氏の解説を読むと、彼はにはほとんどが知っている事実だということだったので、著者というより、アメリカの文学界でそれだけ研究されている作家、ということなのでしょうかねぇ。

 1984年頃、村上春樹氏が夫婦でカーヴァーを訪ねていく場面の描写もあって、興味深く読みました。晩年、病気にならなかったら来日する計画もあったようで、とても残念。まあ、その頃に私が興味を持ったかどうかわかりませんが、80年代後半というのは、生活に一番余裕があったなぁと思いました。

 読後感があまりいいものでなかったのは、カーヴァーの死後、最初の妻や子どもたちと晩年の妻が財産を争って裁判になる数ページがどうも陰惨だから。それを消化するのにちょっと時間がかかったのですが、真相がわからなくても、たぶんそういうことも全部含めて考えたほうがいいのかなと思いました。

 物事は単純なほうがいいとよく言われるけれど、何ごとも辛抱できないキレやすさを連想してしまいます。単純にして間違った方向に行ってしまうほど愚かなことはありませんからね。そうならない「溜め」の力をつけるのが文学のひとつの役割なんじゃないかと思うんですよね。

 それにしても、小説を書くことに関してのカーヴァーの努力には頭が下がります。ワーキングクラスである生まれに縛られ、アルコールや煙草や人間関係に依存して振り回されることはあっても、書くことだけにはどこまでも頑張るのです。

 カーヴァーの友だちの作家がこんなことを言うシーンがありました。「レイ、小説を書くことは、くだらない競馬とはちがうんだ」これに対し、カーヴァーは「いや、これは競馬なんだ」と。その後、「僕はもともと、酒と芸術家についての伝説や神話には興味がなかった」「酒そのものに惹かれたんだ。酒の味が好きだった」と言っていたという話も。きっと、小説を書くという行為に夢中だったのでしょうね。

 ホントこういうのを読むと、日本人である自分の飽きっぽさに思い当たります。飽きっぽいって、人間が未熟だということなんじゃないかなぁと思うんですよ。ここを克服しないと、何ごともうまくいきませんね。教えている学生にもカーヴァーはこんなことを言ってます。「(書くためには)生きていなければいけないし、静かな場所を見つけて、毎日一生懸命仕事をしないといけない。」あまりにまっとうな言葉で、ただただうなずくしかありません。

 雑誌の編集者チャールズ・マクグラスという人が、カーヴァーの他の作家への影響力について言っていることも面白いなぁと思いました。「カーヴァーがしたことと、彼を真似した作家たちのものを比べると、彼がいかに傑出した作家だったかがわかる。レイの影響力のおかげで、アメリカのフィクションは、何年もずっとマンネリ化していた。でもそれは彼のせいじゃないよ! 彼がしていたことが、実際より簡単に見えたせいなんだ。」

 カーヴァーの娘クリスが子どもを産んだ後に大学に通い始めるのですが、その娘への手紙のアドバイスも的確なんです。まず手元に辞書を置いて単語を確認することを勧めた後「何かが複雑に思えるときや、こみいっているように感じられるときには、よく考えて注意深く書き出してごらん。必要なら何度かそれを繰り返すことだ。やがてそれらは滑らかに流れるようになり、自分が伝えたいことだけを正確に表現できるようになる。」まさにその通りですね。こんな言葉をタイプしているだけで冷や汗が出てきますよ。はい、肝に銘じます。