物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

どんどん焼き と ブローティガン

今日は早朝から家の雑用に終われているうちに、昼近くなってしまいました。
最低限必要なことしかしていないというのに、家事は侮れません。簡単に昼食をとって自分の仕事にでかけよう…と思いついたのがお好み焼き。

広島に旅してお好み焼きを食べて以来、東京風のものも食べたいと思っていたのですが、まだ実現していませんでした。そうだ、ちょうど豚肉と小麦粉が残っているから作ってみるか、とボールに小麦粉を入れたところまでは良かったのですが…

なんと肝心要の卵がない。ぎゃ、キャベツもない。

よろしい。間違って大量に買った葱がたくさんあるのです。あ、チーズもありました。これだけあれば、大丈夫、大丈夫。

てきとうであるから、お好み焼きというのですよ。全部かき混ぜていっぺんに焼いてしまえばいいのです。そのほうがおいしいんだから…

と言いつつ、豚肉は最初に炒めました。そのほうが時間短縮できるしね。なんたって、急いでいるんですから。ひとりで食べるんですから。

あっという間にできあがり。おいしそうじゃん…ちょっと量が多すぎるけど。

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がーん、ソースがなかった。…もう、何もない家なんです。

おっと、冷蔵庫に、義父が使わないからとくれた胡麻ドレッシング(なぜかよく調味料をもらいます)がありました。OK。

うーん、私がイメージしていたのとはちょっと違うけど、意外においしい。と言うか、あれっ、懐かしい味。そうか、これは10~20代に食べたお好み焼きではなくて、もっと幼い頃に母が時々作ってくれた…

どんどん焼き? 母が作るものにはいつも、こんなふうに大量に葱が入っていたんです。若い頃の母は、なぜか〈どんどん焼き〉が好物でしたっけ。

 

実は昨日、リチャード・ブローティガンを今まで読んだことがなかったのですが、たまたま手にとった『不運な女』(藤本和子訳 新潮社)を読んだのですよ。この作品は1984年に著者が49歳でピストル自殺した後、遺品から見つかったものなのだそうです。そのせいなのか、なんなのか、表現方法が冴えていて斬新なのに驚いてしまいました。

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ひとつには、日本語の文章がとても良くて、訳者が小説の仕組みを理解して、この作品を深く読んでいるせいであることは間違いありません。訳者あとがきに次のようにありました。

『アウリスのイーピゲネイア』からの引用のあとに、プロローグとして読める文章がある。まず、それは実在したNが死んだ知らせを受けた作者が、Nに宛てた手紙で、リチャードの頭文字Rで結ばれている。その後に、新聞にのせる訃報のように、作者はNの氏を報告している。そこでは物語はまだはじまっていない。

 そのつきにページをめくると、『不運な女』というタイトルがあらわれる。プロローグを書いた人物と、小説『不運な女』の主人公である語り手は同一人物ではない。このふたりは区別されなければならない。たとえ語り手の話の内容が作者の体験に酷似していようと、語ることは創造の仕事であって、作者の体験を報告するだけの記録ではない。プロローグのあとに『不遇な女』という物語のタイトルがおかれているのは、そこからが「作品」であり、語るのは「語り手」であって、作者ではない。作者であるブローティガンはNの死を悼む手紙を書いてから、『不運な女』と題された物語を語り手にわたした。

なるほど、と思います。

でも、この特異性は訳のせいだけじゃないように思い、気になって図書館に行き、書棚にあった『鳥の神殿』を読んでみました。この作品も面白かったけれど、やはり、最後の作品は特殊なのかもしれないなとあらためて思いました。「これはリチャード・ブローティガンのそれまでの試みにひとつのピリオドを打つ作品ではないか」と訳者が言っているように。

いきなりピリオドから読んでしまったのですから落ち着きません。『アメリカの鱒釣り』を読まなければ。