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物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

アドラー心理学

 昨日は賃仕事を後回しにして、市と提携している和光大学図書館の更新手続きに行きました。2011年から利用しています。たいていのものが揃っている市図書館ともまた違った基準で本が選ばれているので、利用させていただけるのはとても有難いです。

ところで、先日読んだアガサ・クリスティ『春にして君を離れ』がずっと気になっていましてね。…ええと、現実の問題を見ようとしないで、表面のきれいなところだけ見ていると人と心を通わせることができなくて、どこまでも孤独になってしまうという話でしたよね。

何かピンときましてね、参考になる本はないかとアドラー心理学の棚の前をうろうろしていました。あ、そうだ、“勇気”ね、と『勇気はいかに回復されるのか』(岸見一郎訳・注釈 星雲社 2014)という本を手にとってみました。

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小説は“勇気”がキーワードだったと思うんですよ。主人公のジョーン(中年の主婦)は夫が、外見上それほど魅力がない女性にひっかかってしまうことに自尊心を傷つけられるんですよね。でも、彼女には“勇気”があると夫は言うんです。

アドラー心理学がひっかかったのは、最近、流行っているみたいだから。『嫌われる勇気』とか、本屋に平積みになってたのを思い出して。

ちなみに、アルフレッド・アドラーは、フロイトユングと並ぶ超有名な心理学者です。アドラーの心理学の特徴は共同体という考え方で、社会に個人がどう関わるかを見るところが特徴みたいでです。なぜか日本ではあまりとりあげられてこなかったらしいですけれど。

この本はアドラーの著作からの引用の後に、訳者の注がついて噛み砕いて説明してあるのでわかりやすいです。というか、もしかしたら『春にして君を離れ』を考えるのに良い編集になっているかも。

たとえば、人間にとって必要な“分業”について。うまくいかないのは、ある種の未熟な人々がいるからだとアドラーは言います。

この仕事の問題をまったく回避するか、人間の関心の通常ある場を超えて、忙しくすることで回避する試みをする人がいる。しかし、問題を回避するとしても、事実上、彼(女)らが仲間から援助を要求することはいつも見られる。彼(女)らは、何らかの仕方で、自分自身は貢献しないで、他者の労働によって生きるだろう。これは甘やかされた子どものライフスタイルである。甘やかされた子どもは、何か問題に直面する時はいつも、それが他者の努力によって彼(女)のために解かれることを要求する。そして人類の協力を妨げ、人類の問題を解決することに積極的に関わる人に、不当な重荷を投げかけるのは、主として甘やかされた子どもである。

この、甘やかされた子どもって…?

勉強には関心を持つけれども、教師からほめられると思っている限りにおいてである。自分に有利だと思うことだけを聞く。大人になっていくと共同体感覚が欠けていることはいよいよ明らかになる。

この部分の注釈。

甘やかされた子どもは自分にしか関心がなく、他の子どもには関心がありません。

そして、

なぜ、他の人へ関心が持てなくなるかといえば、母親の影響があります。母親は、子どもがこの世で最初に会う仲間です。ところが、母親だけが子どもにとっての仲間であるわけではないのに、自分以外に仲間がいることを子どもに教えず、子どもが自分以外の人に関心を向けることを許さないということがあるのです。

うーん…なんか、これ、私たちのサークルでいつも問題になっていることについて語られているようです。思春期の子どもの親というのは大変なもので、過去の子育てのツケが回ってきちゃうんですよね。

それはそれとして、“勇気”については、どう書かれているのか?

勇気のある人は人生のあらゆる点において何かのことに関わっている。彼(女)らは「これは私の勇気を越えている」といって脅しを受けることはない。彼(女)らの問題のすべてにおいて、できるかぎり全体的な状況を考慮するだろう。

または、こんなふうにも書かれています。

勇気のもっとも優れた表現の一つは、不完全である勇気、失敗をする勇気、誤っていることが明かにされる勇気である。

なるほど、小説『春にして君を離れ』の夫ロドニーが惹かれる女性は、人生の深刻な問題に次々見舞われますが、不完全であることや、失敗することや、誤っていることが明らかになることを少しも恐れませんでした。
それに対して、甘やかされた子どもというのは、主人ジョーンのことであり、場合によってはロドニーも含まれるのかもしれません。

(甘やかされた子どもの)彼(女)らの多くは賞賛の渇望にとらわれる。少年が賞賛を求めることにあまり集中することは危険だが、他方、多くの少女はいっそう自信を欠いており、他者に認められ賞賛されることに、自分の 価値を証明する唯一の手段を見る。このような少女たちは、容易に彼女たちをおだてる方法を知っている男の餌食になる。

餌食になるって、だいぶ過激ですね(笑。
新しい版のハヤカワ文庫は栗本薫の解説になっていましたが、パートナー(男性)の意見では、主犯はロドニーと見るみたいでした。確かに、ロドニーに明確な意志があるのだとしたら、そうかもしれません。
つまり、意志の弱い自分を支えてもらうために、意図的にジョーンにこういった役柄を担わせているとか。子どもたちや周囲の人々の愛は自分が独り占めにしてしまう。
少なくとも、ロドニーが“勇気”にこだわるのは、自分に勇気がないからですね。優しいけれど、臆病なんです。

子どもが恥ずかしがりであることも危険に満ちたことである。(略)恥ずかしがりは矯正しなければならない。さもなければ、その子どもの一生を破滅させることになる。(略)勇気がある人であれば、たとえ失敗しても、それほど傷つくということはない。しかし、恥ずかしがりの人は困難が立ちはだかっているのがわかれば、すぐに人生の有用でない面へと逃避してしまう。このような子どもたちは、後の人生で神経症になったり、精神病になったりする。

あ、ロドニーも神経症になって入院していましたね。ショックを受けたのは、惹かれていた女性が死んでしまったからですけれど。ただ、ロドニーの行動パターンとして、逃げるということはありますかね。ジョーンとは恋愛結婚だけれど、ジョーンが彼と真剣に向き合うことを避けるのを、そのままにしてはいますね。

共同体感覚を欠いている人は、仕事、友情、性の問題に取り組む時、それらの問題に協力することによって解決できると信じていないのである。自分が行ったことから益を受けるのは自分だけであると考え、関心は自分だけに向けられているのである。

そして、

共同体感覚が妨げられたところではどこでも、自己中心的な態度だけが残るのである。(略)そして、この心の仕組みの中では人生の課題を解くことができないので、ためらい、安直な逃げ道を探すことを余儀なくされる。苦労して進むことを困難だと思い、他の人が傷つくのを見ても何とも思わない。

このへん、まさに『春にして君を離れ』のテーマのように思われます。

大部分の人間は、できることは何もない、人間の力を越えたものがあるという考えにとらわれている。これはわれわれが困難を克服するのに役立つ人生の課題であると考える発展にまったく貢献しない悲観主義者である。

そうですねぇ、80年代など知っていると、最近は悲観主義が蔓延しているようには思われます。

たしかにこの世界には、悪、困難、偏見はある。しかし、それがわれわれの世界であり、その利点も不利な点もわれわれのものである。われわれは、この世界の中で働き、進歩していくのであり、誰かが自分の課題に適切な仕方で臆することなく立ち向かうならば、世界を改善するにあたって、自分の役割を果たすことができると希望していい。

 

こんなこと書きつつ、耳鳴り&難聴はやっぱりストレスなんだなぁというのを納得しました。日常から離れたいので、ちょっと湯治に行ってきます。