物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

相模原でミーティング

今年も8月最後の土・日・月に社会教育研究全国集会が神奈川で行われます。会場は相模女子大です。

地元ということになるそうですので、私たちも公民館部会のお手伝いをするべく、橋本でのミーティングに出席してきました。相模原の学習グループの方々にお会いし、その前向きなパワーが少々羨ましくもありました。お話をしていると自分たちはだいぶエネルギーが低下しているように思われます。

良くないですねぇ。どうしてでしょうねぇ。

社会教育の重要性という観点で、相模原市がまだ(?)公民館が無料で自主的な学習活動が活発だということも大きな要因でしょう。でも、それだけでなく、私たちよりも少しだけ上の世代ということもあるのかなと。私たちよりも足の下にまだ地面がたくさん残っている印象です。

どうして私たちの足の下には地面があまり残っていないのだろう。いや、地面は大事ですよね。どうしたらとり戻せるのでしょうねぇ…ということをずっと考えていました。

今年の課題別集会ではやまゆり園のことがとりあげられるらしく、この問題についても話題になりました。私もこの事件のことは色々なところでつながりもあり、ひどく気になって「現代思想」の特集号も買って読んだのですが、ここに紹介するエネルギーがありませんでした。

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まずエネルギー補充のため、癒しのための読書を。

読者のものすごい数の質問に答える「村上さんのところ」を読んでいます。こういう人生相談もあるのだな…と。

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編集会議

明日の午前10時から正午まで、いつも読書会をやっている多目的室で、次号読書案内「ピッピのくつした」の編集会議があります。編集作業をしたいかたはいらしてくださいね。

次号の編集長はミズタマさんですので、特集は「虫」ということになっています。私も虫が好きですし(? いや、誤解しないでくださいね。観察が好きなんです)ミズタマさんだからということもないのですが。

いや、でも、ミズタマさんは確かゾウムシだったか何かの幼虫を食べたことがあると言ってましたからね。キャラメルコーンみたいだったとか(笑。

似ているようで、前回の「猫」特集とはだいぶ違う、アングラ・マイナー路線になりそうな気配です。よろしくお願いしまーす。

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観察

今日はちょっと調べものがあって、某大学の図書館に出かけました。

乗っていた電車の車輌は、そんなに混んでいなかったんです。今のシートは1人の座る領域が微妙に区分けされていますからよくわかるんですが、7人がけのシートに私の側は6人、向かい側にも6人座っていました。

みなさん、電車の中でスマートフォンをよくいじっていますよね。私は最近ガラケーからスマートフォンに移行したばかりのせいかもしれませんが、なんだかカバンから取りだすのが億劫なのですですよね。仕事の連絡メールが来るはずだったので、気をつけていたほうが良いのはわかっていても、まあいいか、とぼうっとしていました。

で、つい数えました。こちらのシートでスマートフォンを操作しているのは3人。]向こうのシートでは4人でした。残りは5人。

こちらのシートの私を含めて3人は何もせずにぼんやりしています。40代か50代の女性で、まあ、ちょっと疲れている感じですね。

対面の2人は読書していました。やはり今でも電車で読書をするものなのですねぇ。分厚い文庫をさりげなく読んでいる年輩の男性と、ハードカバーのを片手で持って宙に浮かせている若い男性。

良く見ると、その本は村上春樹の「海辺のカフカ」でした。彼の熱心に読んでいることといったらありません。年輩の人が渋茶に手を伸ばすような力で読んでいるのだとすると、若者は獲物を狩るような勢いです。物語世界をじっと凝視しています。

すっかり感動してしまって、私は手帳を出してメモしました。これで、こちらのシートは、2人はスマートフォン、2人はぼんやり、1人は手帳にメモですね。

若い読者のための短編小説案内

「若い読者のための短編小説案内」を読み終えました。

 私の場合は、ここで取り上げられている短編小説をまず読んでから、村上春樹氏の文章を読みました。手元に短編小説を全部用意してから読み始めたので、交互に読むリズムで通しました。

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 でも、先に小説の紹介文を読んだら別の面白さが味わえたかも、と小島信夫「馬」の章を読んだときに思いました。この小説があんまり奇妙な物語だったからかと思いましたが、この後に紹介された小説も、作家の代表作というよりはそれぞれ際だった特徴のあるものばかりだったで、条件は同じかもしれません。
 それが面白かったとも言えますけれどもね。どっちが先のほうがよいかは、人それぞれでしょうか。
 後半は、庄野潤三「静物」、丸谷才一「樹影譚」、長谷川四郎「阿久正の話」です。前半の3人の作家の小説は何作も読んだことがありましたが、この方々の小説はほとんど読んだことがありませんでしたので新鮮でした。村上春樹氏の文章と一緒に読めるというのも、とても贅沢です。もう、ものすごい満腹感です~(笑。
 この短編小説案内は、プリンストン大学とタフツ大学で授業をしたときに学生と一緒に日本の短編小説を読まれたことと、この本を書くために文藝春秋社で編集者のかたがたと同じように読まれたことを土台にしているようです。
 方法は、まず参加者がテキストを読んできて、村上氏が発表し、みんなでディスカッションするというやりかたらしく、私たちの読書会とほぼ同じではないですか。
 参加者にお願いしたことが3つ「あとがき」書いてあり、これも、私たちの読書会と同じだと思いました。いえ、強制ではありませんが、これをするととっても面白いですよ、ということです。
 
「ひとつは何度も何度もテキストを読むこと。細部まで暗記するくらいに読み込むこと。もうひとつはそのテキストを好きになろうと精いっぱい努力すること(つまり冷笑的にならないように努めること)。最後に、本を読みながら頭に浮かんだ疑問点を、どんなに些細な事、つまらないことでもいいから(むしろ些細なこと、つまらないことの方が望ましい)、こまめにリストアップしていくこと。そしてみんなの前でそれを口に出すのを恥ずかしがらないこと、である。」
 
 本当に、その通りだと思います。
 
 引用されている本を読まないと落ち着かなくて中断していましたが、これで安心して「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読むことができます。

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安岡章太郎「ガラスの靴」

先日から読んでいる「みみずくは黄昏に飛びたつ」は大変面白く読んでいます。この本の中に何度も出てくる「若い読者のための短編小説案内」も、今更ですが読み始めました。

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せっかく連休ですので、ここで紹介されている短編小説と村上春樹氏の文章を交互に読んでいこうかと、吉行淳之介「水の畔り」、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」まで読みました。3作ともかなり独特です。「馬」などは、ほとんど正気とは思えないくらいです。でも、なんとなく懐かしい。

特に「ガラスの靴」ははっきり読んだのを記憶していますが、内容はまったく覚えていないのですよね。うーん…あまりに昔だからかな。その香り、というより淡い色合いみたいなものだけが残っているのですよね。

私の読書体験は、高校生になって村上春樹氏の最初の2作を読んだことでネジがとんでしまって、それ以前の記憶があやふやになってしまっています。「ガラスの靴」は、たぶんその直前の中学を卒業する頃に読んでいるはずで、それを思い出しました。いきなりネジがふっとんだのではなく、最初のステップは「ガラスの靴」だったのです。

主人公の若い男性は昼間は学生、夜は銃砲店で夜警をしています。この男性は仕事の関係で、原宿にある占領軍のグレイゴー中佐の家でメイドをやっている女性と知り合います。中佐が長期留守にしている間、彼は毎日遊びに行くことになるのです。

この男性ま感覚がとても新鮮でした。たぶん、女子中学生だったときもそう感じたのでしょうね。「ガラスの靴」は昭和26年に雑誌に掲載された短編ですが、少しも古さを感じません。今読むと、むしろ現代的ではないかと。

村上氏はこの作品を切羽詰まったファンタジーだと言います。「どうして切羽詰まっているかというと、作者はこの作品の中で『我々はどれだけ遠くまで現実から逃げられるか』ということを、ひとつの大きなテーマにしているからです。」

あ、なるほど、と思いました。逃げているんだなと。この逃げるという感覚が、中学生だった私にはしっくりきたのでしょう。私は内気でおっとりしたタイプでしたが、実際、逃げ足だけは早いと自覚していました。そもそも、前に進むことと逃げることが同じことを指していた年頃なのかもしれません。時代としても、そういう時代だったのか…。

年を取るにしたがって、だんだん逃げることが苦しくなってくる。時代も変わりました。

1997年刊のこの本の安岡章太郎の章の最後はこうまとめられています。

「一読者として、安岡章太郎という作家のそのような足跡をたどっていくこと自体、ひとつの貴重な文学体験であるだろうと僕は考えているわけです。そしてそれは、戦後文学の流れの中にある、何か重要なものを示唆しているのではないかと。」

 

連休中に残りを読んでしまおうと思います。

カマキリの卵

垣根のカイヅカイブキがあまりに伸び放題だったので剪定をしていたら、枝の途中にくっついたカマキリの卵をみつけました、たぶん庭でよく見かけるハラビロカマキリの卵でしょう。我が家の庭にはなぜか、このずんぐりした種のカマキリばかり見かけるのですよ。

刈りとった枝を集めていたら、あれ、ここにも。あ、ここにも。ちょっと見には気がつかないのですが、探してみると卵はいくつもあり、こんなにあったら他のカマキリは入って来られないよなぁと。

そして、ははぁ、がさがさしたカイヅカイブキの枝とハラビロカマキリの卵の色と質感が似ているんだなぁと気がつきました。

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ということは、うちの庭から毎年大量のハラビロカマキリがご近所に散らばっていくということなのでしょうかね。

いやね、昔々小学生の頃、秋にクラスみんなで虫とりをしたんです。それでカマキリの卵もついでとってきて教室のバケツに入れておいたのです。それをすっかり忘れ、暖かくなったある日の朝、教室に入ったら床一面にカマキリの赤ちゃんがわらわら。ものすごい数でした。クラス全員で保護して外に放ったのです。

そんなことを思い出し、カイヅカイブキにくっついていたやつはゴミ袋に入れずによけておきました。だって、ハラビロカマキリって手に乗るし、愛嬌があって可愛いのですよ。

なんてのんきなことを考えていたら、寝室の私が寝ているすぐ上の障子の鴨居にも…。

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ふー、危ない、危ない。今気づいて良かったー(汗。

 

 

➡読書会に参加してくださった詩人の土屋さんが、ブログに書いてくださいました。

rei-tsuchiya.hatenablog.com

 

連休、夫婦で映画に

  連休、夫婦で映画でも見に行こうかということになりました。何を見ようかと考えていて目にとまったのが、お世話になっているかたから送られてきたハガキ。2015年の地震で被害を受けたネパールに寄付したことへのお礼が書かれていました。「あ、そうそう、寄付を送ったんだ」と夫。
 それで「世界でいちばん美しい村」を見に行くことにしました。ピッピのメンバーがメルマガで紹介してくれたのを思い出したのです(ピッピでは、月2回メルマガを発行しています)。
 2015年のネパール地震後、最初は写真を撮りに現地に行ったカメラマンのかたが、その後、映画を撮ったという作品のようでした。映画に撮られている山岳地帯にある村の斜面は見るからに地盤がゆるそうで、ここで地震が起こったら怖いだろうなぁ…と恐ろしく思いました。というか私は真っ平な土地で育ったもので、どんな生活をしているのか、映画を見ただけではなかなか想像できません。
 はっきりわかったのは、4000人の村で、学校に通っている生徒が600人いるという数でした。その比率があまりに私の住む地元町内とは違うので、驚きました。私が住む町内にその1/10の人数が暮らしているとして、高齢者は150人、就学児童は20人くらいじゃないでしょうか。この違いはすごいことだなと思いました。
 この4000人の村で亡くなられたのは24人ということでした。家はほとんどが崩れ、崖崩れ、大きな岩が落ちてきたりもしたようです。怪我をした人も多かったでしょう。
 ひとつひとつの葬儀を村中で丁寧に行っているらしく最後の葬儀が行われたのは一年後。ひとりの人間を失うということは、本当に大きいことだと思います。時間をかけるのが自然なことなのだなと実感しました。
 ただ、この映画には写真家の方が撮っているせいか、不思議と時間感覚が描かれていないので、むしろ時間ということを考えさせられました。物語には、何より時間が必要だということ。人間を把握するにも時間が必要なのだということ。
 村の人たちは先祖の霊をとても大事にしているので、たぶん歴史のある村なのだと思いますが、地盤がもろくなっているということはどうしてなのでしょうね。生活が近代化したことによるものなのでしょうか。古い儀式はそのまま行われていますが、村には電気も通っていますし、水道もあります。そのへんも、時間感覚が測れません。
 危険な村から離れて、もっと高くて平たい土地に避難キャンプができているのですが、そこに避難できない人が大勢います。高齢者のかたが先祖の土地を離れたくないという気持ちはわかりましたが、キャンプからでは畑に通えないという理由をあげる人がほとんどでした。畑の映像はなかったので、どういうことだったのか。
 同時に、安全なキャンプ地に移転した学校に通うのは、村からそうとうに歩くことになるので、小さな子どもには大変だという話もありました。
 村人たちは安全なキャンプ地に避難したのか、危険な村に戻ったのか?
そのへんの時間感覚がわからないのは、現実がそれほど単純ではない、混乱しているということなのでしょう。
 映画でもっとも印象に残ったのは、子どもたちがとても大事にされているということ。それから、知識人が大事にされていること。村にいる唯一の看護師は、政情不安の折に知識人が連行されるかもしれないという情報が流れたときに、自分があなたの身代わりになる、と申し出た村人がいたと語ります。だから、彼女は村人のために全力を尽くしたいと。村人に大事にされていると感じたので、こたえたいと。子どもたちも、親に楽をさせたいとがんばりたいと言います。
 それは真実の言葉だと思われました。映画の端々にそういう様子ははっきりと映っていました。
 映画の後、いつもは夫とは別行動になるのですが、今回は一緒にランチを食べながらあれこれ語り合う機会になりました。連休はまだ続きます…。