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物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

安岡章太郎「ガラスの靴」

先日から読んでいる「みみずくは黄昏に飛びたつ」は大変面白く読んでいます。この本の中に何度も出てくる「若い読者のための短編小説案内」も、今更ですが読み始めました。

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せっかく連休ですので、ここで紹介されている短編小説と村上春樹氏の文章を交互に読んでいこうかと、吉行淳之介「水の畔り」、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」まで読みました。3作ともかなり独特です。「馬」などは、ほとんど正気とは思えないくらいです。でも、なんとなく懐かしい。

特に「ガラスの靴」ははっきり読んだのを記憶していますが、内容はまったく覚えていないのですよね。うーん…あまりに昔だからかな。その香り、というより淡い色合いみたいなものだけが残っているのですよね。

私の読書体験は、高校生になって村上春樹氏の最初の2作を読んだことでネジがとんでしまって、それ以前の記憶があやふやになってしまっています。「ガラスの靴」は、たぶんその直前の中学を卒業する頃に読んでいるはずで、それを思い出しました。いきなりネジがふっとんだのではなく、最初のステップは「ガラスの靴」だったのです。

主人公の若い男性は昼間は学生、夜は銃砲店で夜警をしています。この男性は仕事の関係で、原宿にある占領軍のグレイゴー中佐の家でメイドをやっている女性と知り合います。中佐が長期留守にしている間、彼は毎日遊びに行くことになるのです。

この男性ま感覚がとても新鮮でした。たぶん、女子中学生だったときもそう感じたのでしょうね。「ガラスの靴」は昭和26年に雑誌に掲載された短編ですが、少しも古さを感じません。今読むと、むしろ現代的ではないかと。

村上氏はこの作品を切羽詰まったファンタジーだと言います。「どうして切羽詰まっているかというと、作者はこの作品の中で『我々はどれだけ遠くまで現実から逃げられるか』ということを、ひとつの大きなテーマにしているからです。」

あ、なるほど、と思いました。逃げているんだなと。この逃げるという感覚が、中学生だった私にはしっくりきたのでしょう。私は内気でおっとりしたタイプでしたが、実際、逃げ足だけは早いと自覚していました。そもそも、前に進むことと逃げることが同じことを指していた年頃なのかもしれません。時代としても、そういう時代だったのか…。

年を取るにしたがって、だんだん逃げることが苦しくなってくる。時代も変わりました。

1997年刊のこの本の安岡章太郎の章の最後はこうまとめられています。

「一読者として、安岡章太郎という作家のそのような足跡をたどっていくこと自体、ひとつの貴重な文学体験であるだろうと僕は考えているわけです。そしてそれは、戦後文学の流れの中にある、何か重要なものを示唆しているのではないかと。」

 

連休中に残りを読んでしまおうと思います。