物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

神々のたそがれ

10日金曜には編集会議がありました。「ピッピのくつした」次号は8月に印刷する予定です。色々報告をしなければと思いつつ、「抒情文芸」に投稿する小説を焦って書いています。

人間、慣れてくるとだんだんいい加減になるものですね。重い腰を上げてやっと書き始めたのが何日か前。こんなことではとても良い作品は書けません…。今回はパスしてしまおうかとも考えましたが、そういういい加減でだれた主婦を主人公にしてみました。

秋号への投稿なので、季節は秋にしたのですが、秋というとどうしても喘息を思い浮かべてしまって、ストーリーにはまた喘息が絡まってきます。

な~んて悠長なことを言っていられず、締め切りは15日必着。間に合うだろうか…? 困った、困った。書いたものを推敲するのには、ほんとうはちょっとした時間と距離を置きたいのですが、時間はないですよね。

 

というわけで気分転換に、夫と2人で下高井戸の映画館で映画を観に行ってきました。アレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』という2013年のロシア映画です。制作に15年かけたのだとか。一番思ったのは、映画のテーマや意味がどうとかいうことよりも、本物らしく見せようというしつこさ。このしつこさは何だろうと考えてしまいました。

こういうしつこさって日本人にはないので、日本人にはそのまま映画を理解しにくいところがあるかもしれません。それは、この間観た『雪の轍』でも感じました。つまり、しつこく議論する習慣がないから、内容よりもその手前の、日本人に斬新な議論の習慣に目がいってしまう。この映画も、日本人に斬新なしつこさに目がいってしまうのかも。

しつこさ、というか…執拗な努力が日本人には苦手だなぁといつも思うんです。簡単に言うと、諦めが早い、変わり身が早いということかな。と同時に、そのあっさりしたところに日本人の表現センスが光るのだろうと常々思っています。たとえば俳句とか、短歌とか。

若い頃はなんと言ってもセンスですからね~、そういう日本人的な潔い表現センスに注目していましたが、年をとるほどに限界を感じまして。努力しなかったことは、何も残らないのです。なので、努力を心がけているし、しつこくなりたいと思っています。

でも、映画を観て、さっぱりしているところもあっていいのかなと考えを改めさせられました(笑。

最初から最後までずっと泥の中だし、他の意味でもネチョネチョしたシーンが続く映画です。視点もかなり近い。実は、私は同世代の人たちとはギャップのある貧しい生まれなので、泥とかねちょねちょとか、近い視点とかはお馴染みで大好きなんですけれどもね。

でも、3時間はさすがに息が詰まります。考え方として、私の頭は実は言葉でできていなくて数学的なところが強いので、細部よりも、意味を考えてしまうからかもしれません。

 

そんな映画を観て、小説にどう活かすかということですが、そう考えるととても興味深いです。距離がとれたのは確かですしね。

さて、書きたくなってきました。