物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

毒婦たち

今日は小説を読む気になれなくて、『毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ』(上野千鶴子×信田さよ子×北原みのり河出書房新社2013)を読んでました。

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3人の対談の中で語られる毒婦の話はとても興味深いのですが、ぜんぜん別のところに妙に感心してしまいました。その北原氏の言葉を抜き出してみます。

 

 北原 私たちって、日常的に脅しの文化の中で生きているんじゃないかって強く感じるんです。この間、韓国へ行ったのですが、あの国にいると脅されている感覚がすごく薄かったんですよね。例えばライブひとつとっても、日本の会場では「写真を撮ったら退場してもらうか、ライブを止めることもあります」なんてアナウンスが流れて、「他の客にも迷惑がかかる」と脅しをかけてきますよね。それに慣れていたんだけど、韓国で流れたアナウンスは「写真を撮らないでください。撮ったらデータ抜きます」と言っていたんですよ。なんかそれだけで感動しちゃって。日本って、論理じゃなく、脅すことで人を規制している社会になっているじゃないですか?

 

ああ、そうだなぁって思いました。このところ書いていた優等生の話ですけれど、優等生ってこの脅しを自分で自分にかけているようにも感じます。過激に他人指向なんですよね。

そういう「他人のために」という規制は自分に留まらず、周囲にもプレッシャーをかけていくんですよね。そういう息苦しさ、あちこちで感じます。

この本の少し先にこんな箇所もあります。日本で「こんなこと言ったら何か言われるんじゃないかって気分が充満している」と言った北原氏に対して、

 

上野 制裁の主体が権力の顔をしてなくて、あなたは社会全体を敵に回しますよって脅しが来るのね。

北原 そうです、そういう空気を多くの人は感じつつあるんじゃないですか。

上野 「空気を読む」ことを強要されるというのはつまり、そういうメカニズムを自分たちがずっと張り巡らせてきたってことよね。だから、誰が自分の抑圧者で、誰が自分の支配者かがわからない。権力の顔をしてないから。だけど逸脱行為をしたら、あなたが社会全体を敵に回しますよっていう制裁が加えられる。

 

日本では、そういう社会構造になっていることで、周囲と対立せざるを得なくなる思春期をスキップしてしまう人が多いのかもしれないですよね。つまり、しっかりした自我を確立することが難しいのかも、と思ってしまいました。