物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

読書会再開します。

皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。
自粛生活では不自由とストレスを感じつつも、今まで忘れていた自然の恵みなど様々な気づきがあったような。すべて悪い面ばかりではなかったような気もしています。
緊急事態宣言が解除されましたので、ピッピの読書会も今月から換気を心がけつつ再開します。
とりあえず6月26日(金)、そして7月31日(金)を予定しています。 
場所は以前と同じ町田市民フォーラム3階多目的室。二方向に窓があるので、幸い換気はしやすいかと思います。参加する方にはマスク持参をお願いします。
10時~12時のお茶会は当面テーマは決めずに色々情報交換していけると良いかと思います。参加費は無料。
13時半~15時半は読書会。6月26日(金)パオロ・ジョルダーノ「コロナ時代の僕ら」、7月31日(金)カミュ「ペスト」、参加費500円です。
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ペスト

緊急事態宣言下、私のメインの仕事は休むことができないできないものなのでほぼ今まで通り。そのせいかもしれませんが、余暇を散歩と読書に費やすようになって、実はとても充実しています。
もともと散歩はよくするのですが、街中を避けて自然の中を歩くようになると新しい発見もあって面白いです。
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昨日歩いた小道に沿って群生していた可憐な花、松波草というのですね。
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蟻地獄マンションもありました。そういえば昔、子どもが教えてくれたなぁ。
そして、読書。ついにこれを読みました。
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最初は誰が語り手なのか不明。漠として読者としての立ち位置が定まらず読みにくかったのですが、途中で構造を明かす仕組みだったのですね。
まず個人的に気になったのは、非常事態に宗教がどれくらい心の支えになるのかということ。現在のコロナ状況でもどうもひっかかるのですよね。やはり科学と対立するかたちの宗教の影は薄くなっていかざるをえないのかなと。
物語の中で印象的だったのはパヌルー司祭の言うことが微妙に変わっていくところ。そして、変わりきれないところ。
ただ、主人公はベルナール・リウーという人。物語はどこにも流されず、この医師の視点でドライに語られていくのです。
医師はあえて、ヒロイズムは問題ではないと言います。というより積極的に「美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになるなると、信じたいのである」と思っている。
ああ、さすが『異邦人』のカミュだなと。
医師は、ペストと戦う唯一の方法は「誠実さ」だと言うのですよね。今がコロナ渦中でなかったら、スルーしていたかもしれませんが、様々な情報シャワーを日々浴びている状況下では、これは胸に響きました。
一般人としては、素人の感情論にながされず、専門知識のある人のその専門分野についての見解、誠実な言葉に耳を傾けるべきではないですかね。
主人公の医師は、ペストと戦う唯一の方法は誠実さ、そして自分の職務を果たすことだと言います。
患者や濃厚接触者の受け入れ先についてなど事務作業を買って出るグランという人が出てきます。彼は非正規で働いている公務員ですが、ライフワークとしてひとつの小説を何度も書き直しています。彼は医師に「よかった、よかった」と言います。医師は「?」
「よかったですよ、私には自分の仕事があって」これはボランティアのことでも、官吏の仕事でもなく、ライフワークのことを言っています。
医師は即座に理解し「それはひとつの強みですね」と返します。
そういうことが、人生では一番大事なのかもしれません。

ステイホーム

緊急事態措置が継続になりましたね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私の仕事は休むことができない部類のものなのに加えて、このところ家族の食事作りも増して忙しくしています。疲れてしまったので連休は1週間ほど休みをとりました。
といってもどこかに出かけるわけにもいかないので、近所の公園に毎日弁当と菓子をもって出かけていました。f:id:machienpro13:20200507121647j:plain]
図書館が完全休業(なんとかしてくださーい)なので、仕方なく家にある本読むことに。でも、なかなかゆっくり読めなかった本もあるので、こんな機会もたまには良いのかなぁ。
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好きなのものを食べて読書。なんという幸せ。

お久しぶりです。小説書いてました。

書き忘れていましたが、今月予定されていた総会や読書会はありません。今月のピッピの活動はお休みです。

緊急事態宣言がでて、更にそれが全国に拡大され、世界がどんどん変わっていきます。
そんな中で、今月15日締め切りの「抒情文芸」に短編を投稿しようと小説を書いていました。
集中しようとすればするほど、その気ののらなさ加減にコントロールが効かない。スマホでニュースばかり見てしまうんですね。
そりゃそうですよね、小説より現実の方がずっとずっと刺激的なわけですから。
こんなに書けないのでは今回は諦めようと一旦書くことをやめました。でも、この状態をそのまま描いてみたらどうかなと書き始め、3日くらいしか猶予がなかったのですが、自分に似た立場にいる架空の人物を想定して世界をみてみることにしました。
そうすると不思議なもので、というか当たり前なのですが、自分には見えない、つまり主人公の視点でしか見えないものが見えてきて、それに夢中になってしまいました。やっと夢中になれました。
ああ、小説を描くのってこういうことなんだなぁと思った次第です。

書くことで落ち着いたということもあり、違う側面から見る人の考えを知ることで世界が立体的に見えてくるということも体感しました。

縛られた男

感染が心配との声もあり、先月末の読書会はせりがや公園、桜の木の下で行いました。
取り上げたのはイルゼ・アイヒンガー「縛られた男」です。ややカフカ味も漂う不可解な物語。ウィーン生まれ、23歳で終戦を迎えたユダヤ系の作家ですので、やはり戦争体験が色濃く反映しているのでしょう。

明るい日差しの中で目覚めた男は自分が縛られているのに気づくところから小説は始まります。この縄はいったい何なのか、その後戦うことになる狼とは?
現在の世界がこんな状況下のため、どうしてもコロナウィルスにたとえてか希釈したくなりました。それどころかコロナウィルスとは何であるのかという話にも。
少しスッキリしたのは、物語には当然に結末があり、…もちろん単純な終わり方ではありませんが…先の見えない状況を打破する想像力を刺激してくれたこと。
読書会の醍醐味ってそこですね。
それから、運動不足を解消するために体操もしました。

みなさん、元気でお過ごしですか?

来るだろうなぁ…と思ってはいましたが、じわじわ生活に影響しているのを体感している今日この頃です。
みなさん、コロナ禍の世界を、どうお過ごしですしょう?
余分な時間が増えて読書や執筆活動が進むと思いきや、ブログを更新することすらままなりません😓
うーん、落ち着かないのでしょうか。
いや、私が外でやっている2つの仕事は減りませんので自分の時間は増えていないのです。それどころか主婦としましては家族が家に揃うことが多くなって家事仕事が確実に増えていますね。と言い訳したりして。
それにしても読書量が減りすぎてるよなぁ😰

ピッピの活動も部屋の中に集まるのは危険かもと思い、先日の運営会議は公園で行いました。

来週(3月27日)は読書会がありますが、場合によってはこの場所に変更しようかと思います。
イルゼ・アイヒンガー「縛られた男」を取り上げますよ。読んでない人がいたら朗読もしようかな。桜を見ながら読書会というのも風流かもしれないですね。

ウトヤ島、7月22日

先日、エリック・ポッペ監督の映画「ウトヤ島、7月22日」を、1人では勇気がなく友人たちと観ました。
動機としては、わりと近い地域で起こったやまゆり園の事件の裁判、記事を読むほどやりきれない気持ちになってしまって、もう少し理解したいと思ったのです。さすがにここまで行動を飛躍させていってしまうことはほとんどないとしても、そのベースとなる心理は身近なところにもないとは言えませんから。
2011年のあの事件、日本では震災のあった年なので記憶に特に強く残っています。たった1人の犯人によるノルウェーの連続テロ事件の2つめの銃乱射事件をもとにした、ドキュメンタリーではなくフィクションです。
警官の扮装をした犯人が島にキャンプに来ていた大勢の若者たちを銃で撃ち続ける様子が、狙われる側の視点で、ワンカットで撮られています。

映像の中の若者たちが仲間同士で逃げたり、助け合ったりする心理がすごくよくわかる。いざというとき、自分の身を守ることと、他者を助けるということの違いはそれほど大きくないのかな、とも。
かなり丁寧に、リアルにつくられているので、観ているときに友人が近くにいても怖いには怖いです。でも、1人でなくて良かったと思いました。

そして、この映画を観終わったときに、犯人に対して抑えられない怒りに燃えるのはわかるとして、感じるかもしれない別の環状や居心地の悪さについて考えてしまいました。
強いものに従ってしまう人間の弱さみたいなもの。そういうものが、事件が起こるベースにあるのではないかと。