物語とワークショップ

ピッピのくつした/まちだ演劇プロジェクト

ティム・オブライエン「待ち伏せ」

忙しくしていたら、いつの間にかこんなに時間がたっていた😵私は元気にしていますが、介護関係のトラブル、子どもたちが春から家を出たりということが色々続いていました。
読書会は予定通り進み毎回盛り上がっていますが、報告する余裕もなく、ごめんなさい。

まず次の読書会のお知らせです。
ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』の中から「待ち伏せ」を選んで皆で話をしたいと思います。5月27日(金)13時半から、いつもの市民フォーラム3階多目的室にて。
よろしくお願いいたしますm(_ _)m

2月『流行感冒』読書会の報告

 2月25日(金)はコロナ禍に読んでおきたい本ということで『流行感冒』をとりあげました。今から100年前のスペイン風邪が流行した時代の家族を描いたごく短い小説。作者の家族に実際に起こった出来事を題材に書いた私小説だと思います。

志賀直哉と言えば、私小説私小説と言うと、かつてあまりよろしくないような言われ方がされたこともありましたが、どうなのでしようね。

(最近、個人的には私小説というのが小説の基本形なのではないかと感じられます。実際に書いてみると、とても難しいですから。ネット情報が溢れる時代だからこそ余計に思うのかもしれませんが、プライベートな体験を自分の見方に溺れず常にクリアな視点できっちり書くには、かなりの精神力と技術が必要なのではないかと。)

第一子を亡くした経験を持つ若い夫婦、特に語り手である父親は幼い娘が感染することを何よりも恐れています。過保護になりすぎているのではないかと周囲の農家の子供たちの育ちを見て不安になったりもします。妻も多少批判しますが、やはり一緒に甘やかしてしまうようです。やはり、この夫婦には第一子を亡くした痛みが大きいのでしょう。スペイン風邪の脅威もかなりのものです。

スペイン風邪は1918年3月に第1波、8月に第2派、翌19年1月第3派があったらしく、死世界人口が18から19億人の時代に5億人が感染し、1億人を越える人が亡くなったのではないかと言われています。コロナと似ていますが、若い人の方がかかりやすく、亡くなった大半は5歳以下だったよう。親としては心配でたまりませんよね。

この家庭では若い女中を2人雇っています。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を先月とりあげたばかりなので、私は階級が気になってしまったのですが、この夫婦は使用人として彼女たちを格下と扱うより、結婚前の若い娘を預かる責任も感じているようです。娘たちにとっては花嫁修業、学びでもあったのでしょう。

そういった娘たちは村に年一回やってくる芝居に行くことも楽しみにしていますが、パンデミックを理由に主人はこれを禁じます。女中が感染して、それが子供にうつることを恐れているのです。ひとりは言いつけに従いますが、もうひとりは嘘をついて出かけてしまうのです。いや、あくまでも出かけていないと言います。

ここで主人が何を思うか、どう考えるか、考えようとするか、どう行動するか、そして何が起こるか、それによって彼の考えがどう変わるかがこの小説の肝です。意外に動きがあるのですが、志賀直哉の文章はさらっと読めてしまいます。

小説の醍醐味は、主人公の意識が変化することで、それを読む人の気持ちも柔軟に変化することだと思いますが、それが受け入れがたいことはよくあります。でも、志賀直哉のように、書き手の自己肯定感が強く何事も真っすぐ書かれていると、読み手はその変化に気が付かないくらいあっさり飲み込んでしまうのですよね。

 

原作に少し肉付けした本木雅弘主演のNHKドラマを観ていた人もいたのでそれとの比較もし、以前『和解』を読んで志賀直哉の小説作法に注目していた人の考察もあり、短い作品ですが思った以上に深読みすることになりました。

 

 また、たまたま仕事で長期ロシアに行かれていた方が参加されたので、ロシアのウクライナ侵攻のニュースについての話にもなりました。場の空気に流されず、それぞれの意見が言える場があることの大切さを痛感しました。

 

★読書会は毎月第4(金)13時半~(部屋が取れない場合は別の日になります)

参加費500円です。

《このあとの読書会の予定》

4月22日…『彼女は頭が悪いから』姫野カオルコ

5月27日…『待ち伏せティム・オブライエン

6月24日…『地下生活者の手記』ドストエフスキー

7月…『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル

★リフレッシュお茶会(お茶持参)午前10時~12時もあります。参加費無料です。

場所はどちらも町田市民フォーラム3階多目的実習室です。

私は、ダニエル・ブレイク

読書会が終わったので『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のパート2を読んだのですが、階級社会ということが更に受け入れづらくなってやもやしていました。

もしかすると日本は階級意識が希薄なのでしょうかね。差別がいけないという前に、少なくともブレイディさんと同じ世代の私が育った年代なのか環境なのかわかりませんが、その中にはそもそも、あるひとつのことを除いて差別意識というベースがなかったような気がします。

下町の貧しい地域、貧しい(もっと貧しい人がたくさんいましたが)家に育ちましたが、それで差別された経験はありません。逆に言うと、お金持ちの子どもが優遇されるのも見たことがありません。子どもはやたら多く、純粋な能力主義の空気が充満していて、そういう意味ではシビアでした。その時々、その分野で能力のある子がリーダーシップをとっていたかと思います。

ただし、女性差別はあったのです。
これは本当に女性の精神を蝕むレベルで存在していました。そのせいであれほど受験戦争と騒がれた時代に、女性が大学進学することも困難でした。
私も親を怒らせないようにあまり勉強しないよう努力しました。90点以上とれるところを適当に80点くらいになるように調整したりとバカなこともしました。
そういうことをしていると、力を発揮しないようにする癖みたいなものがつくのですよね。精神が歪みます。

私は本を読むことは我慢できず、隠れて本を読むということをしてきましたが、以来、両親に心を開くことは避けてきました。しゃべれば嘘をつくしかありません。できるだけ会わないように、会ったらお天気の話をするくらいです。そのせいで父も早く亡くなったのではと思うほどです。

父の介護が必要になって、また最近は母の介護も必要なのでしばしば実家に行くのですが、それは父と母が少しずつですが考えを改めてくれたからです。
それで母と仲良くランチしていると、これが周囲に羨ましがられるようなのです。驚いたことに、周囲に仲の悪い家族があまりに多いのですよね。話を聞くと、ああ…と傷口に塩をすりこまれる気分。納得できるのです。原因は家庭内の女性差別なのですね。

差別は、される側だけでなく、する側にとっても良いことがないです。それた人は心が歪むしその恨みはどこかに必ず出てきます。ほんとやめてほしい。
そう考えると、階級差別、格差の広がる社会が不幸な世界を招くことは間違いないでしょうね。

そして、昨夜、2016年に制作されたケン・ローチ監督の映画『私は、ダニエル・ブレイク』を見ました。
イングランドニューカッスルに住む年配の腕の良い大工が主人公。心臓病を抱えた彼は医者から仕事を止められますが、複雑な社会制度を攻略できず国の援助をなかなか受けられません。そんな中、同じく援助を受けられない2人の子どもを抱えるシングルマザーと互いを助けあっていきます。
でも、全然救われないのですけどね。善良な人々がホームレスになっていく社会のシステムに驚きました。能力があってもダメということなのですね。

なるほど、これを見て『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の理解が深まりました。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー読書会

感染拡大している中ですが、換気に気をつけつつ1月28日ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』読書会を無事開催しました(*´-`)
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エッセイの読書会はあまりやったことがないので、だいぶ違うんだなぁと戸惑いながら、いつもより丁寧に読み解いていきましたよ。ブレイディさんの文章はリズミカルな口語体で気楽に読めてしまいますが、そこにはテクニックがあるのですよね。
内容的には、この状況下に出席された方々は全員子育て経験者で、やはり皆さんここで描かれる子育ての方法が気になったのでしょうかね。
中学生がこんなに良い子であり得るのか?
母親が子どもには干渉しないでいられるのか?
母親だけでなく父親、それから息子がこんなに良い関係でいられるのか?
いやいや、少なくともこのまま不完全変態で成長はしないでしょうし、成長してしまったら問題ですよね、と私は思ってしまいましたが。
それでも、読書会が終わってみて、私が一番引っかかったのは階級社会というものかもしれません。本の中ではどちらかというと人種差別に焦点が絞られていましたが、階級という概念の方がうまく飲み込めません。不思議なのですよね。
良くも悪くも、日本という階級のない社会を私たちは生きているのだという発見がありました。

次の読書会は、2月25日(金)、コロナ流行下で志賀直哉『流行感冒』をとりあげてみます。

村上春樹「ドライブ・マイ・カー」読書会

暮れから年始にかけて忙しすぎて、12月の読書会の報告をしないままになっていました。申し訳ないですm(__)m

さすがに映画にもなった、それも村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」をとりあげましたので、実は大盛況でした。この日、久しぶりに来られたかた、男性参加者もおり、それぞれの立場から様々な意見が出ました。皆さん、深く読み込まれていたようでした。

この短編は『女のいない男たち』に収録されている連作短編の最初の作品です。後に続く作品とそれぞれ繋がりつつ、構造がかなりしっかり啓作されていることもあると思います。だから、映画ではこの作品のタイトルになっているのでしょうね。

ちょっと聞くとばらばらの感想、対立するのではないかという解釈が多々ありましたが、複雑なパズルをみんなで知恵を出し合って少しずつ組み立てていくように、皆の言葉をつなげていくと次第にひとつの形が見えてくる現象がありました。これぞ読書会の醍醐味だなぁと久しぶりに実感しました。

その直後、私は映画『ドライブ・マイ・カー』を観に行ったのですが、この連作短編集をおそらく深読みして更に先に、戦闘的に進もうとしているのだろう監督の描き方にたまげてしまいました。

読書会と映画、かなり刺激的で楽しめました(^O^)

 

【今後の読書会の予定】

1/28ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

2/25志賀直哉『流行感冒

3/25石沢麻依『貝に続く場所にて』

4/22姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』

ティム・オブライエンドストエフスキーなど続きます。

 

読書会の方法…「目の見えない人は世界をどう見ているか」伊藤亜紗(光文社新書)

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤亜紗著/光文社新書

この本は出版されたときに読んで感銘を受け、目の見えない人と一緒にダンス公演を鑑賞したり、関連の講習会を受けたり、各種ワークショップをやってみたりとかなり色々なことをやるきっかけになったのです。それなのに、今回再読して初めてハッと気づきました。

なんで以前は思わなかったのでしょうね”(-“”-)”

ここで紹介されている目の見えない人と見える人が一緒に美術館でアート作品を鑑賞するという行為は、読書会そのものなのですよ。愕然としました。

本の中で直接語られているのは第4章「言葉」他人の目でみる、というところです。

この見えない人と見える人が一緒に美術鑑賞するというワークショップのやり方はだいたいこんなふうに説明されています。

・見える人は2つのことを言葉にします。

  • 見えているもの(客観的な情報)
  • 見えていないもの(印象や思いついた事柄や個人的な経験など)

・見えない人は質問し、自分で考えて意見も言います。

・見える人も見えない人も、自分の身に引き寄せて考えた事柄やはっきりしない印象などを丁寧に言葉にしていき、それらをつなげていきます。そうやって皆で一緒に作品の解釈を練り上げていきます。

これは他人の目でものを見る技術であり、お互いの違いこそ生きてくるのだと。

なるほど!と思いました。違いがあることで、見えない人がいるグループトークが面白くなるわけです。

この本で紹介される見えない人の特殊能力で印象的なのは、世界を基本的に三次元で把握しているということです。そんなの、見える人だってそうだよと思いがちですが、視点を持っているとどうしても写真のように平面で考えてしまいがちなことに気づきました。たとえば、富士山に対して持っているイメージです。見える人が平面的な三角形であるのに対して、見えない人は立体の円錐形であるのだと。

これ、あれこれ考えてみると思っていたよりずっと大きな違いなのです。

 

というわけで、実験的に見えない人と一緒に鑑賞するワークショップをやってみました。見えない人が立体把握しているらしいので、それを最大限生かそうと鑑賞するものは立体にしてみました。

見えない人役の人にはアイマスクをしてもらってから、ポップな立体オブジェを設置しました。じゃーん!

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アイマスクをつけて体験した人の感想を紹介します。

 👇

「んん? なんだコレ」

「これは立方体ですね。それに脚が生えてる。三本」

「木の脚だね」

「古いブラウン管テレビのような感じですか?」私が質問する。闇の中で、すでにぼんやりと像が浮かんでいる。

「いや、えっとね、立方体なんだけれども、その尖ったところが上と下になっているんですよ」

頭の中で立方体の像が瞬時に半回転する。

「なるほど。じゃあ足は立方体の下の面か辺の部分から突き出してるってことですか?」また質問してみる。

「辺からです」

「上の三つの面には星型、丸、三角の窓のような穴があって、そこから何か飛び出していますね」

「にょろにょろした感じ。柔らかそうな白いものですね。生き物かな」

「で、そういう立方体が三つあるんですよ」

「ええ?」脳内の像がいきなり分身する。

「一つは倒れていて、残りの二つはちゃんと脚で立っています」

「それからその三つの周りに何か蛹のようなものがいくつもいくつも転がっています」

「それは白いんですか?」

「白いのもあるけれど、まだら模様のやつもあります。まだら模様のやつは全体がまだら模様というのじゃなく尖った部分なんかが部分的に淡い色でマーブリングされてるような」

「病気みたいだね」

「不時着した宇宙船なんじゃないですか」私も意見を出す。段々と《みえて》くる。

「例えばですけどね、宇宙船が別の星に不時着して、でもその宇宙船には病原体が付着していてその星の生物の蛹に感染してしまっているとか。それでにょろにょろたちが宇宙船の様子を調査しに行ってるのかな」自分でも驚くほど言葉が出てくる。

「ちょうどはやぶさに積まれたミネルバという小さい人工衛星をイメージしているんですけれどね。その棒、或いは針のような三本の脚が振動しながら重力の小さな星の上を飛び跳ねて進むんですよ」想像が止まらない。

見えないと、ものに対して脈絡を見つけようとする。結果として、見えているときには見えないものが見えてくる。見えているという安心感で見過ごしてきたものがよく《みえる》。

 

読書会って、本当にこういうものだと思います。

彼女は頭が悪いから

先日、姫野カオルコさんの小説「彼女は頭が悪いから」を読みました。
どこかでこの本を紹介する文章を読んだのと、嗅覚的に今読むべき本だというのが伝わってきたから。
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この本が話題になっていた時期……小説の題材となった2016年の東大誕生日研究会レイプ事件(実はレイプではないけど)にゾッとしたし、その反響にも関わりたくなく避けていました。

…ということは、やはり内容を予測していたのでしょうね。

そうですね。
読めば、思った通りでした。

このまま行くと結末はどうなるんだろうと気持ちが暗くなりましたが、ラストの思ったより明るめの空気感に救われました。
問題を明確にすることは、やはり解決ヘ向けての大きな一歩ですね。

最初にも言いましたが、小説というのは不思議なもので、その時々の自身の問題や悩みを解決するヒントが隠されています。
丹念に読めば、実際に困っている事柄を分析する手がかりがいくつも発見できます。

この小説が扱っているのは、簡単に言うとパワーハラスメントだと思うのですよね。人間関係における不条理な格差による実害。

私事で考えれば、職場の問題や過去の友人とのトラブルに関連しているように思われました。
そして何より、重ねてヒリヒリと痛みを覚えるのは、現在進行形の弟とのコミュニケーション不全です。

子ども時代はいつも世話して連れ歩いていた年の離れた弟が、現在、常に悪意をもって、上から目線で接してくる気持ちがわかりません。
いや、原因はあるし理解できなくもないのですが、そこをきれいに封じて見ないで平気なことが不可解です。

かつて、女には学歴は不要としつこく唱え続けた両親も、男の子の教育にはひどく熱心でした。
非常な努力をして弟は偏差値の高い大学を出ています。
それによって切り捨てたことは諸々あったでしょうが、その行為はそこまで人格を変えてしまうのでしょうか?

それで、幸せなのでしょうか?
考えるためにも、読書会で取り上げてみたい1冊です。